伝承と推理  


公式文書だから信用できるのか?

現代の政治事件や政治スキャンダルを観ても、否定的な意見を

持たざる得ない・・

昨今、巷間で噂になっていることが事実と思われても、国家が正式な

文書として後世に残すことは無い

なぜなら権力側にとって、残すことに意味を持たないものは、残さないからである

「憲法違反の疑いを国民は危惧していた」

そんなことを公文書として残す道理が無い・・・・ですよね


愛知県三河地方にある言い伝えが遺されている

第36代 孝徳天皇の皇女・綾姫が、大化5年(649年)都から遠い地である

西三河の浜辺に【漂着】したという

孝徳天皇は女性天皇とされる皇極天皇の譲位によって即位した天皇で

中大兄皇子が即位しなかったので、皇極帝の弟である「軽皇子」が即位

することとなった曰く因縁のある天皇である

「大化の改新」の時代の天皇だが、謎の多い天皇でもある

実際の政治は中大兄皇子が仕切っていたとされ、改革に対し

周囲に不満や反感を覚えるものが多かったと言う

その代表が「蘇我入鹿」を後ろ盾とした【古人大兄皇子】だったが

反乱計画があると密告する者が現れ、中大兄皇子の手によって

皇子一族が滅ぼされてしまった

さらには蘇我入鹿暗殺に加担した「蘇我倉石川麻呂」が中大兄皇子の

暗殺を計画したとして追い詰められ、自殺に追いやられていて、その後

妻子も後を追ったとされる

その石川麻呂の事件が起こったのが 大化5年(649年)なのである

翌年には孝徳天皇は新しい宮(難波長柄豊崎宮)に遷っていることから

皇女が流されたり、追放になる理由が考えられない


私の妄想であるが・・・

もしかすると、石川麻呂の娘(姫)が孝徳天皇に仕えていて、父親に降りかかった

冤罪によって、自身の身の危険を感じて逃げ出した可能性もある

孝徳天皇は「置き去りにされた帝」であり、孤独死したと伝えられている

中大兄皇子が皇極上皇、大海人皇子、孝徳天皇の皇后を連れて

ヤマトに帰ってしまったと言うのだから・・・

孤独死だったのか、命を縮められたのか・・・

もしかすると、孝徳天皇の皇女だったかもしれないが、孝徳天皇の皇子・皇女

の記録が見当たらないので、断言できないが・・・

浜の里人によって秘密にされ大事にされて余生を過ごしたのかもしれない


大海人皇子(天武天皇)と三河地方は深いかかわりがある

天武天皇の皇子・草壁皇子が三河の地に住み、此処で亡くなったという

伝承があり、火葬した場所や墓まで存在するという

都で持統天皇の皇太子だった草壁皇子・・・病死した草壁皇子とは

いったい誰だったのだろうか?


不都合な真実は記録に残されない

最初から草壁皇子ではなく、持統天皇が天皇位を継ぐ意図が有りや無しや

なぜ女性天皇だったのか?

権力を一族のモノで占有したい陰謀が決意させるのかもしれない


歴史はパーツの大きく欠けた「ジグソー」である

どのパーツを何処に嵌めるのかで、見えるものが変化する

何を信じて、何を疑い、何をどのような角度から見るのかによっても

不思議な景色を見せてくれる

歴史に絶対も無ければ、100%も無いのである

誰もが歴史家になれて、誰もが旅人になれるのである。

Posted on 2017/06/09 Fri. 22:42 [edit]

category: 歴史

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大河ドラマ  


大河ドラマを観ている方もいらっしゃることと思う

私も嘗ては楽しみに観ていた時期がある

父親が見ていたことも影響して、一作目(花の生涯)から

11作目の国盗り物語まですべて分からないながらも観ていた


その後、社会の波にもまれて観る機会が無く、所帯を持ってから

25作目の独眼竜政宗~26作目の武田信玄、32作目の炎立つは

観ていたが、その後は観ることが無くなった


どうして観なくなったのかと言うと・・・

興味がない題材の作品が多かった事

さらに、学芸会と見まがうばかりの主役に落胆したこと

自分の中の歴史観と次第に「ずれ」が生じてきたことが

主な要因である


腐っても鯛 という言葉がある

NHK大河ドラマは最高のキャスティングと時代考証があって

成り立つものだと私は思っていた

若いタレントやお笑い芸人、歌手もどきが主となっては

私にとって観る価値が無いに等しいのである


NHK大河の功罪は幾つかあるが、もっとも貢献しているのが

「所縁の地」への地域貢献ではないだろうか

大河で出てくる「ご当地」へ足を運ぶ視聴者も多いと聞く

地域おこし、地域活性の一役を買っていると言える

それだけでも大河が制作されるメリットは十分なのかもしれないが


歴史という題材は本(脚本)を書く人にとって、好都合なことが多い

歴史の真実は「その時・その場所」に立ち会わなければわからない

という大原則がある

そういう点から考えても「正しい・正しくない」という判断基準は不明確だ

その?を上手に脚色して「ドラマ(フィクション)」は制作される

私のような「偏屈爺」からすると、【つっこみどころ】が満載ではあるが・・・

批判するために見るほど酔狂な爺でもなく、観る価値が有るか無いか

という個人的問題だろうけど・・・


今回の「おんな城主直虎」を作るなら、戸次道雪の娘・立花誾千代を

題材にしたほうがより史実に近いと思うのは私だけだろうが・・・・

立花誾千代(ぎんちよ)は正式な手続きを経て、豊後・立花城の城主と

なった女性である

父親は「鬼 道雪」と異名で呼ばれた戸次(べっき)鑑連、誾千代は7歳の時に

父から家督一切を譲られて正式な城主となった人物である

実在が疑われる「直虎」より真実味があると思うが、視聴者にとって

真実か虚実は意味など無いのだろうが、創作と脚色では「説得力」

というものが大きく変わってくると私は思う


わずか4~500年前のことが正確にわからないのが歴史である

男だったのか女だったのか、同一人物だったのか別人だったのか

それすらわからない日本の歴史・・・

1000年前の皇位継承争いの真相など、解らなくて当然である


まして2000年前の古代日本の真相など・・・・

卑弥呼が「名前」だと思っている人も居る

私は「呼称」だと考えているが・・・それすら「憶測」でしかない

邪馬台国を「やまたい」と呼んだのも後世の人間であり

実際には何と呼ばれていた国だったかも謎である

古代中国式に発音すれば「ヤマドゥ」だと言う・・・・


何かを基準にするから「判断」できるのであって、「判断基準」そのもの

がどうなのかという事だと考えます

ボタンの掛け違いは歴史に限らず、人生でも起こっていることですが

今の日本では、こんな話は意味が無いですなぁ・・・・

Posted on 2017/06/07 Wed. 00:26 [edit]

category: 歴史

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表と裏  


未だに連勤が続いております

命を削って勤しんでいる長屋の爺です


最近は帰宅後、家事を片付けてから「仮眠」をとります

エネルギー切れによる【充電】です

夜に起きて食事をし、パソコンをつけるのが9時~10時

そのころには酒も入り頭は就寝の準備に入りますので

長い記事を書くことに躊躇い(ためらい)が生じます・・・


はい、これは「いいわけ」ですけど(笑)


最近感じることが幾つかあり、センターラインを跨いで

蛇行運転をする車を頻繁に観ることが多く、明日は我が身

(被害者になる)の覚悟で、運転に集中しています


あとは、商業施設の駐車場で「入口」と書いてあるのに出て行く

命知らず(馬鹿)や「出口」から入ろうとして、出て行く対向車とぶつかる

豪傑(馬鹿)も観ました・・・

何も考えていないのか?

口は食べ物を「入れる」場所であり、食べ物を「吐く」場所ではありません

その「理屈」が理解できないのでしょうか?

とにかく「自分優先」であったり、「損得が基準」の人間ばかりが目につきます

車いすのマークが書かれた駐車スペースに、健康優良な「おばさま」が

当然の顔をして駐車しています

きっと・・・「頭が身障者」なのかもしれません

思考がどう考えても「自分本位」で、他人さまに迷惑がかかるとか

決まり事を守る意識が欠落しています

おそらく、その原因の多くは「くだらんテレビ番組」の影響だと

私は思っていますが、どうでしょう?


テレビの中の「クズ芸人たち」が、何をしても、何を言っても

製作者も視聴者も「嬉々として当然の如く受け入れている」

そういう現実があります

思考回路をマヒ状態にされて、社会生活にまで影響が出ている

私の思い過ごしかもしれませんが・・・・


対人関係で気に食わないことがあると、その問題点とは違う別問題で

難癖をつけたり、批判したりします

表の理由で批判しない代わりに、別の事柄で相手に「一撃」を

加えることって、意外と多いものです

言葉遣いが気に入らない部下に対して、「言葉に気を付けろ」とは

言い出しにくいと、服装の乱れや、髪形などを注意したり・・・


やたらとタレントや芸人の「言葉」を真似て喋る仲間がいます

私の心の中(裏)は【お前の程度はその程度か?】と言いたいですが

口から出る(表)のは、「なにそれ?」 「今流行りなのか?」の言葉で

済ませています


私の本音はテレビに出ている芸人・タレントは【現代の太鼓持ち】という

認識で、それ以上でもそれ以下でもありません

視聴者が「気分の良くなる」「楽しくなる」話やネタで糧を得る職業であり

そんな太鼓持ちが、政治ネタや報道番組の司会をすることに違和感を

感じています (芸人・加藤とか、J系歌手など・・・)


ブログだから書ける話題や本音って精神的には有意義だと思います

訪問者の眼を意識した時点で、自分も「太鼓持ち」に堕ちる

最近はそう考えるようになりました

訪問者(ブログを読んでくださる方)の気分の良くなる話題・記事だけを

書こうとすると、自分が自分で無くなる気がしています


書きたいことを、書きたいときに、一定の決まりを守って書くことが

私のブログのスタンスだと思うようにしています


逆に言えば、訪問者の多いブログって、こうやって書けばカウント数が

上がるなどと思って書いていない気がします

ブログ主が書きたいことと、訪問者が見たい・読みたい事が合致する

それが上位に位置するブログの正体ではないでしょうか・・・



座禅をしたことがある方はご存知でしょうけど

僧侶が棒で打ちますが、あの棒は【警策】といいます

曹洞宗では「きょうさく」、臨済宗では「けいさく」と呼びます

あれは「罰している」のではなく、「励ましている」といいます

修行者を文殊菩薩の手(警策)で打つ(励ます)ことだそうです

だから、打つことを「与える」といい、打たれる人は「いただく」

という事なんだそうです

曹洞宗は壁に向かって座禅を組むので警策は背後から【一打】

左肩は尊い【袈裟(けさ)】をかけるところなので、打つことはしません


臨済宗は壁を背にして座禅を組みますから、警策は前から【三打】受けます

ただし臨済宗は【右肩】に「三打」、【左肩】にも「三打」うつのが基本だそうです


これで座禅の映像を観る際に、どの禅宗の修業道場の映像なのか

みる眼が違ってきますね(笑)


禅と聞くと【問答(もんどう)】を思い浮かべるのですが、これは臨済宗などの

禅宗に見られることが通常です

曹洞宗は無心で座る 【黙照禅(もくしょうぜん)】 が基本ですが

臨済宗は座禅をしながら【公案(こうあん)】と呼ばれる教育課題を

手がかりとして悟りの境地を目指します

*「公案」とは昔の優れた禅僧の言葉などから悟りについて考える

クイズのようなものだと言います


一休さん でおなじみの「そもさん」「せっぱ」という言葉

実際にはこういう使い方はしないらしいですが、言葉の知識として・・

作麼生(そもさん) 説破(せっぱ)

さあ 答えられるかな?  答えてやるぞ! 

そんな意味の、中国・宋時代から使われている言葉なんだそうですが・・・


禅と一口に言っても、「違い」が判ると興味も深くなります

今日は禅の薀蓄でした(笑)

Posted on 2017/06/05 Mon. 00:09 [edit]

category: 私の思い

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6月2日という一日  


昨夜の突風&豪雨&雷に飛び起きてしまった

風の「唸る音」の正体を認識するまで時間がかかった

台風でもあのような唸り方はしないかもしれない・・・

ベランダにたたきつけるような雨が降り

地面を切り裂くような雷鳴がとどろいた

日付が変わろうという時間だったのは、単なる偶然だったのか


日本人は「6月2日」という日を忘れてはいけない

何を訳の分からない事を言い出した長屋の爺・・・

そう思ってくださって結構です(笑)


容認するしないという立場ではなく、日本人として

日本人を祖先として生きて来た日本人にとって

本日、天皇陛下の退位を実現する特例法案の衆院通過があり

「天皇の退位」「女性宮家」の創設が確実になったのです


日本国憲法は改正するまでもなく、憲法の体を成していないことが

周知の事実となった「記念すべき日」となったと私は思っています



【日本国憲法】 

第1章 第2条 

皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。

第4条 

天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない


議会が国民の代表であるというならば、日本国憲法の前文を再確認すべきである

(前文抜粋)

国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、

その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する


皇室が自ら憲法を無視し、政府も主権者である国民の総意とは異なる「愚行」を選択し

さらには主権者の「利」とは異なる道を採択したのは動かしようの無い事実である


日本国の伝統、国民の精神的支え、日本人としての誇り

その総てを粉砕したに等しい暴挙である

自民党も公明党も民進党も【同じ穴の狢】でしかなかった




日本国憲法 第二十条 【信教の自由、国の宗教活動の禁止】

(1)信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。
いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

(2)何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

(3)国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

日本国憲法 第89条 

公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、

又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又は

その利用に供してはならない。



これは日本人の多くが知っている「信教の自由」「政教分離の原則」であるが

堅苦しい文言で書かれていて、意味がよく理解できないのも事実だが・・・


問題点は幾つかあるが、皇室祭祀が宗教活動に当たるかどうか?

判例では、宗教団体とは、布教や具体的な宗教行為の実践を本来の

目的とする団体に限られるとされる



神道が宗教であるか否か、皇室が団体であるかどうかは疑問であるが、

皇室祭祀は布教活動とは異なる形態だと私は理解している


政府や宮内庁が言う皇室祭祀が天皇家の「私事」であるとするなら

天皇家の存在は日本国民の福利に関わりない事になり、税金(公費)を注ぐ

必然性を失うことになる

(例えば、一人の日本人が国民すべての安寧を祈り続けているならば

天皇家より国民の福利に資する行為を行っているともいえるわけなのだ)


日本国天皇は【最古・最高の神官】【祭祀王】という位置づけであるから

敬いつつ、途方もない巨額の皇室費用を認めているわけである

天皇家の個人的な行事をするだけの一家に、湯水のごとく使う税金と

特権を認める理由が損なわれるのではないか?


わたしは不敬と言われようが、何と罵られようが「おかしい」と思うから

このようなことを書いているのであって

天皇廃止論や皇室廃止論とは異なる観点から考えてみただけである


天皇だろうと総理大臣だろうと、個人としての【信教の自由】を保障されている

だからカトリックの信者であっても良い事になるのだが・・・


だからと言って、皇室の一員がその権利を行使すれば、先に書いたように

第89条によって皇室歳費を受け取る理由・根拠を失うことになる

と言いつつも・・・天皇家・皇族は国民なのか?

そんな疑問すらわいてくるが

なぜ国民の一部が(多数と言えないつらさもある)今回の「譲位騒動」に

激しく抵抗しているかと言えば、税金で生活する天皇家に「国民の意思」

が反映されないことに大きな不満・不審が募ってきている事に尽きる

これが自分達のチカラで生活し、自立しているなら、あくまでも

他人事・他家の問題であり「ピーチク、パーチク騒いで」おしまいになる話である


お花畑日本人による お花畑日本人のための お花畑日本人の国

その国の記念すべき日が、6月2日という日になるかもしれない

現天皇家についてのブログ記事は今回で最後となる気がします


考えるのも口に出すのも「馬鹿々々しい」問題ということ・・・
 

政治家を選ぶにしても、このような政治に何を期待します?

憲法改正以前に、現行憲法すら守れない安倍自公党に

大きな失望と虚脱感を覚えただけかもしれない長屋の爺でした。

Posted on 2017/06/02 Fri. 23:02 [edit]

category: 私の思い

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学ぶことの本質  


なんだかんだ言ってるうちに、5月も終わろうとしている

時間の流れについていけてない長屋の爺です(笑)


6月は地元にブログで知り合った方々が集まることに

まだ先・・などと言っていると、すぐに「その日」が来てしまいそうだ


7月下旬は「靖国参拝」と「神宮観戦」の予定を立てた

「みたままつり」と「奉納あさがお展」の間なので、静かに参拝できそうだ

神宮球場が雨天中止になれば、総武線にでも乗って千葉に行こうか・・・

40年以上足を向けていない第二の故郷でもある


「学ぶ」と聞くと私たちは「教わる」事だと考えてしまう

たしかに「他者」から教わることも多い気がするが

本当に大切なことは、他者からは教えてもらえないのでは

そんな気がしている

他者から教わったことは「化粧」や「メッキ」のようなもの

自分の「血肉」にはならないのではないか・・・

そんなことを考えている


本当に大切なことは「自ら 気づくこと」 ではないだろうか?


私の信条は「今日を生きなければ、明日は来ない」

明日より今日を大切に生きる

私が言うと、なんか胡散臭い言葉に聞こえてしまうが

今日という日を「無意味」に過ごせば、明日という日は

「意味」の無い一日になる

今日を精いっぱい生きるからこそ、明日が来る


私にとって今日という日も、明日という日も「おまけの人生」だ

おまけで生きているのだから、毎日「得」をしているようなもの

そう考えると、自然と肩の力が抜けてくる気がする


私の人生は見かけより「波乱万丈」であり、生かされているとしか

思えない日々を過ごしてきた

他人に自慢できることも無く、他人を羨むことも無く

自分のいたらなさばかりが思い出される人生である


そんな私は人生の大事な場面で「ありがとう」が言えなかった

そんな経験から結局、私は「生きることが下手」な人間という事に・・・

生き方がへたくそでも、生きてこれたのだから人生も捨てたものではない

もう少しだけ、「おまけの人生」を生きてみようと思っている


沢山の「書籍」を読んだからとか、「身になる番組」をたくさん見たから

学んだことにはならないと私は感じている

最難関の大学入試に合格したから「学んだ」わけでもないだろうし

「覚える」ことと「知る」ことは別なのである


【学】

がく・まなぶ

元の字は 學  

爻(こう) + 臼(きょく) + 冖(べき) + 子 の組み合わせ

字の元の形は、メ + 介 で屋根に「千木」のある学舎の形

後に加えられた 臼(きょく) は左右の手で教え導くの意

さらに年少の「子」を加え  の字となり

「まなぶ」の意味となった

古代では一定の年齢に達した若者は、年長者などから

氏族の伝統や生活の規範を学んだという


今の日本人は「計算」は学ぶが、ヤマトの伝統や誇り、日本人としての

規範や道徳などは学ばない・・・というか、学ぶ環境が無いのが現実である。





Posted on 2017/05/31 Wed. 23:27 [edit]

category: 私の思い

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