日本書紀の疑問・矛盾 (壱)  


私たちはこの国が【倭(わ)】から【邪馬台国】を経て【ヤマト】という

国に変わって(移って)行ったと教え込まれてきました

その根拠は言うまでもなく「日本書紀」に書き残されているからです

結論から言うと、そういう事になりますね・・・


その有り難い「バイブル」のような日本書紀は事実を語っているのか

私はかなり疑問に感じています


この国に文字や技術が渡ってきたのは百済からだと日本書紀は言います

「なるほど」と感心してはいけません!

日本の言葉の中に「音読み」という漢字の読みがありますが、この音読みの

ことを「呉音(ごおん)」「漢音(かんおん)」といいます

この呉音のことを「和音(やまとごえ・わおん)」と平安初期までは呼んでいました

平安中期になって「漢音」が普及してきて、区別するために「呉音」と呼ぶように

なったと言います

この「呉」とは三国志の【魏・呉・蜀】の呉の国の事だと言われています

魏志にも「倭」のことが書かれていて、魏の役人が倭人に

問い質したことが記載されていて、「卑弥呼」女王説が確立

しています

どうして魏の役人の質問にきちんと答えられたのでしょう?

それは魏志のいう倭人がその時代の中国大陸の言葉を理解して

いたからではないかと私は考えました


邪馬台国が存在した時代には「三国時代」の中国の言葉がある程度

理解できていたのではないでしょうか・・・

言葉は文化ですから、邪馬台国成立以前に大陸との文化交流があった

と思う方が自然です

でも、邪馬台国の使者に問い質すという事は、邪馬台国と魏の国は国交

は無かった事になります

とすれば、それ以前の国(国家組織)が大陸との国交があったとみるべきで

その国こそ古代の日本だという事になります

しかし、日本書紀はその事には触れていません

私はその国こそ「古代出雲王国」だろうと思っています


日本の着物の事を「日本服」とは言いませんよね・・・

日本の服は「和服」といいますけど、本来は「呉服」という呼び名で

認知されています

そうです、「呉の服」という呼び名も、大陸から伝わってきた衣職から

そう呼ばれるようになったと思われます

日本書紀には縫工(衣織物)の技術は応神天皇の時世に「百済」から

伝わり、その後「呉の国」から職工を呼び寄せたと記されています


しかし・・・

応神天皇の時代4世紀後半~5世紀初頭に【呉の国】は存在しません


呉と言う国は中国に三度存在しています

一度目は紀元前400年代(春秋・戦国)に「呉」と言う国があったらしいこと

二度目は三国時代(222~280年)に「呉」と言う国が存在した

三度目は五代十国時代(902~937年)に「呉」と言う国が存在した


日本書紀に言う「呉」の国の職工が日本に来ることは不可能なのです

これは出雲王国が呉の国から機織り技術や文字文化を取り入れたことを

知っていたから「拝借した」記述だと思えます

それを大陸ではなく「百済」からだと主張することこそ、日本書紀の編纂時に

権力を保持していた者たちが、百済出自の末裔だったことを匂わせています


呉の国から来た言葉を一度は隠し、消した過去だったのですが、漢音という

文字文化が平安中期に定着したことで、区別する目的で、和音ではなく「呉音」

としたのではないでしょうか・・・

そもそも「呉の言葉」「呉の国の音」だったのですから、「呉音」は間違いでは

無いのですから、平安初期の権力者の思惑など平安中期の官人は配慮できな

かったというところかもしれません(笑)


次回も日本書紀の疑問・矛盾を探していこうと思います。


Posted on 2017/09/10 Sun. 22:22 [edit]

category: 歴史

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皇位継承と三種の神器  


先日東京へ一緒に旅した友人から焼酎を頂いた

これがまた口当たりの良い芋焼酎で後を引いてしまう

お湯割りがメインの私が今ではすっかりロックで呑んでいる状態で

生き急ぐ気持ちは無いが、呑み急ぐ心境になった


最近は妙に時間が無いという強迫感が有るのに、暇さえあれば横になっている

生命力が落ちてきているのかもしれないなどと・・・


どう足掻いても、なるようにしか成らないのが人生です

なんたって、長屋の爺の人生は ケセラセラ ですから(笑)



さて天皇が即位するのには三種の神器の継承が当たり前になっています

では、今度の譲位に於いて今上天皇から新天皇に引き継がれる【神器】

とは何と何でしょう?

鏡と剣と・・・

きっと皆さんは【勾玉】だよ! って思うかもしれませんが、残念ですが

不正解です

我々が教えられている三種の神器は「神話の世界」での話でして

天皇即位の際に引き継がれる神器は種類も数も定まっていませんでした

現在の三種の神器は・・・

【璽(じ)】 簡単に言うと 天皇の印

【劔(つるぎ)】 おそらく 天群雲の剣 のコピー

【鏡】 八咫の鏡 のコピー

の三種類だと思われます


どうして「玉(勾玉」が無いのか?

とても難しい問題ですが、私の暴論からすると・・・・

日本書紀が書かれた時代は律令制度がほぼ確立していて

天皇の印(璽)が大きな意味を持っていたという事と

勾玉は古代ヤマト成立時(飛鳥以前)には作られなくなっていて

伝承・伝世の遺産のような存在だったかもしれません

日本の神器にかんする記紀の記述は不正確な記述が多く

信頼性が薄いと思っています

そもそも劔や鏡という神器も日本書紀の継体天皇の即位記事

に初めて出てくるものです

*允恭天皇  天皇之璽

*清寧天皇  璽

*顕宗天皇  天子之璽

*継体天皇  天子鏡劔璽

*宣化天皇  劔鏡

*推古天皇  璽印

*舒明天皇  天皇之璽印

*孝徳天皇  璽綬

*持統天皇  神璽劔鏡

記紀の記述にある 天皇之璽 というのも奇怪な記述であり

そもそも【璽】というのは「王者の印」という意味なのだから

璽=天皇の印 という事になるのに、「天皇之」という形容詞を付けている

時点で、後世の人間が「璽」の意味を理解せずに書き残したことになる

とうぜん「神璽」という記述も、神性を持たせるために神という文字を

付けたに過ぎないし、璽印も同じ意味の言葉を重ねる意味が不明で

8世紀に 璽 というものが重要視されていたのか、あるいは本当に

璽が機能していたのか不明なことが多いです

暴論ですが、この当時は「金印」のような、持っていることが「王者の証し」

の位置づけだったと私は考えます


これを見る限り、三種の神器というものが、後世の人間が古事記の神話の

世界から、ちゃっかり「お知恵拝借」したものだと私は想像しています

律令制度と共に「書類」という新しい媒体が発生し、印を押すことが増えてきたこと

は間違いないですが、何にでもやたら押すという事ではなく、それを持つこと自体に

権威が備わっていたのではないかと思っています


勾玉はヤマトの王権ができる前の文明の「宝物」で、どんな使い方をしたのかも

不明なまま現物だけが飛鳥時代まで残されていたため、塔の下に埋めて魔除け

のような形で使用したものと考えています

日本の天皇制度の創設は持統天皇からと考える長屋の爺の根拠は

こういうところにも表れています

あくまでも万世一系にしなければ不都合だった理由があるから

遡って皇統を整える必要があった

私は暴論と言われてもそう確信しています


次回は日本書紀の「疑問(嘘)」のあれこれなど考えてみます。

Posted on 2017/09/06 Wed. 23:26 [edit]

category: 歴史

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これからは過疎ブログの道へ進みます  


本日、靖國より【秋の例大祭】の案内が届いた

参加するかどうか微妙ですが、何より礼服以外スーツなど

持っていない長屋の爺、このためにだけ購入するのも

どうなのか・・・

仕事との兼ね合いもあり、取り敢えず「保留」ということで


日本の古代史は「押しつけ論」と「思い込み」の世界でもあります

* 邪馬台国を「やまたい」と読むことすら疑問があります

* 卑弥呼という名も「名前なのか」本当に「ひみこ」と読むべきなのか

* 日本の天皇家の祖神が「アマテラス」だというのも疑問が残ります

 しかも日本の総氏神の頂点にいるのが「アマテラス」というのも

 私としては納得できません


私の私感では邪馬台国は「やまどこく」であり、ヤマトそのものだと思っています

ヤマトは何処にあったのか、そういう話でしかありません


かつてこの国では相手の名前を呼ぶことはタブーでした

それが高貴な権力者の一族であればなおさらです

天皇は「おおきみ」とか「おかみ」とか呼ばれていたでしょうし

皇后(妻)も名前では呼ばれることは無く、「きみ」とか呼ばれて

いたのかもしれません

つまりは「魏志倭人伝」に書かれている「卑弥呼」という名も、名前ではなく

通称・呼称だったと思われます

「陽の巫女」 太陽神に仕えるシャーマン(巫女)だから、日巫女(ひみこ)

私はそう信じています


その名残を今の日本でも見ることができます

日本は欧米と違って自分の伴侶を名前で呼ぶことが少ないのです

旦那(夫)を「あなた」「ねぇ」「ちょっと」「おとうさん」「パパ」などと曖昧に

呼ぶことが通常になっています

奥様を「おい」「かぁさん」「ママ」とか名前で呼ばない人は未だに多いと思います

どうしてか?と尋ねてみると、「気恥ずかしいから」とか「なんとなく呼びにくい」

そんな答えが返ってきました

じつは私たち日本人のDNAの中に「刷り込まれた文化」として、脈々と受け継がれて

いるのではないかと思っています

名前を呼ばれると、呼んだ人間に支配されてしまう・・・

古代において【名を問う】 とは、自分の所有になれという事だとされています

若い女性はけっして本名を知らせない者だったと言います

歴史に名が残っている人の多くは皇族の女性が殆どで、名前と思われているのも

本名かどうかは怪しいと思っています

それも、この世から去ってから「天皇の妃」という形で本名が遺されました

生前に間違っても皇后の本名など口にしようものなら大問題になったでしょう

実際には皇后宮とか、**院皇后宮 と呼んでいたと思われます


歌の世界に名を残した女性たちも例外ではありません

和泉式部、大弐三位、赤染衛門、紫式部、伊勢大輔、小式部内侍

誰一人として本名の女性は居りません


日本の歴史は8世紀に造られた

私は皇統すら創作されたものと考えています

日本書紀の編纂の目的の一つは【万世一系】としての権威づくりで

何度も王朝が変わったことが、自分達の正当性を誇示できなかったから

あくまでも自分達は万世一系の皇統の後継者なのだという「刷り込み」

だったと思います



次回から、そんな皇統史に纏わる疑問を考えてみたいと思っています。

Posted on 2017/09/05 Tue. 23:20 [edit]

category: 歴史

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誤解から始まった日本の古代史  


私が旧ブログから何度も言い続けてきた言葉

みなさんも「耳にタコ」と思われるかもしれませんが

日本の古代史の物差しは「日本書紀」と「魏志倭人伝」です


日本書紀に書いてあることがすべて正しいと思っている人に

何を言っても「馬耳東風」でしょうけど・・・

古事記、日本書紀に共通していることは、天武天皇以降に

編まれた歴史書であることで、全ての日本の古代史は8世紀から

始まっているのは動かしようが無いのです

書いてあるから事実と言っても、それ以前の古文書が無いのであれば

記紀を信じるしかないというのが研究者・学者先生の言い分です


どうして残されていないのか?

中大兄皇子が蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼしたときに、蝦夷が火を放って

自害し、その時に朝廷の歴史書も一緒に焼けたとか、蝦夷が燃やして

しまったからとか言われていますが、私は信じていません

国家の大事な歴史書が朝廷ではなく「蝦夷の私邸」にあったというのも

不自然ですし、蝦夷がその時の「大王」だったのなら理解もでき、私邸

ではなく「宮」「別宮」にいたところを責められたから消失した可能性は

ありますが・・・

おそらく、中大兄皇子の手に渡り後に焚書になったか、天武帝から持統帝

の手に渡り、藤原不比等の手によって、日本書紀の素として使用され、後に

破棄された可能性もあるように思えます


こんな話ばかりでは面白くもありませんので

平安時代のお話でもいたしましょうか・・・・


時の権力者だった藤原道長という人は、阿弥陀の救いを信じて無量寿院を

建てたといいます

道長が権力のトップに君臨していた時代、「望月の世」だったわけですが

彼の仏教信仰は【国家鎮護】ではなく、自分が「浄土」に行けることだけ

しか目に入っていなかったと言います

ですが立派な寺院を建て、阿弥陀仏九体を安置したのですから

極楽往生して最高位の【上品上生(じょうぼんじょうしょう)】になれたのかと

思ったら、なんと【下品下生(げぼんげしょう)】だったと言います

*極楽における九等級の座席の事で「上品上生」が最高位で

最下位が「下品下生」だといいます

このことは【栄花物語】に道長の娘・威子の夢の中でお告げがあったと

記されています

宇治の平等院鳳凰堂なども、藤原頼道が自分の権力と財産を注ぎ

自分のための極楽浄土を築こうとして建てたものだといいますから

貴族の欲は最終的には極楽でも「自分だけ特別」な位置にいたいと

いう権力思想から抜けきれなかったのかもしれません


ヤマト朝廷のトップですらこんな有様なのですから、朝廷の祭祀に対する

真摯な気持ちなど微塵も見られないことが解ります

公卿も皇族たちも自分達が「あの世」で安寧な暮らしができる事だけを

願って、仏の僕としてすべてのチカラを費やしていたように感じます



私は旧ブログで、平安以降は「神に対する意識」がどこにも見えないので

ブログを書かなくなったことが有ります

どこを調べても「熊野詣」や「叡山詣」の記述ばかりで、神道の祭祀など

殆ど付け足し程度のものになっています

夢や希望を持っている方には申し訳ありませんが、明治天皇以降は別として

平安中期以降の天皇に「祭祀王」の面影はありません

国家神道として神道が天皇家に復活するまで、祭祀は庶民だけのものに

なっていた可能性すらあります

どうして歴代天皇が「伊勢神宮」に参拝しなかったのかが、大きなカギを握って

いることは確かです、国・民のために祈っていたはずの天皇が、或る日を境に

日本で最も熱心な仏教徒に様変わりしたのです・・・・

近代の神様に願い事をしたり救いを求めるようになった発端は、聖武天皇が

仏に縋り救いを求めたことから始まっています

神さまとは願い乞うものではなく、あくまでも今ある事の感謝を奉げるものです

祭祀王が仏の僕(しもべ)になったのですから、神の子孫はその時「ただの人」に

成り下がったという事でしょう

ただの人が祭祀王であるはずがありませんが、その辺は目を瞑ってもいいとして

祭祀より妻子を選んだ時点で、もはや情状酌量はできないと私は考えます


今私たちが神社に足を運び、手を合わせているのも、明治政府が画策した

国家神道への誘導です

しかし、私はそんなことなど気にせずに神社とは神が立ち寄る場所と言う認識で

誰を祀って有ろうとも、古来から日本に御座す(おわす)神々に向かって感謝する

ことを心がけています。



Posted on 2017/09/04 Mon. 22:34 [edit]

category: 歴史

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被差別民を考えてみる  (六)   


差別と区別


差別とは何だろう?

差別とはいつの時代から始まったのか?

差別は区別から始まった?

差別は区別とは別物?


クローンのような人間ばかりだったなら、区別することは全く

意味を持たないと思えます

区別とは何かしらの条件を規定し、その物を振り分けることではないでしょうか

では、差別とはいったい何でしょう?

ずばり「優劣の差」だと私は考えています


差別は少なくとも「支配層」と呼ばれる集団が形成されてから起こったものだと

私は考えます

自分達とわけ隔てる手段として、自分達の優位性を誇示するため・・・

日本に「大王」とその一族と称する一部の特権階級が誕生したときから

差別は始まったと考えます

ただし、その差別なるものの基準は、時代によって変化していたのでは

ないでしょうか

星や月の動きから天文という知性によって、民衆を束ねていた時代は

特殊な能力を持つ者と持たない者の区別はあったでしょう

しかし、私には区別する姿は思い描けても、差別していた状況が

思い描けません

なぜ差別をするのか?

どうしても自分達が勝っているという自己顕示が主体だった気がします


チカラを持つ者と持たない者が生まれた時から、もっと言うなら「富」を持つ

者が現れてから、その富を維持するために「差別」することが起きたという

事も考えられます

その基準になったのが【穢れ思想】だった気がします

貧しいもの、自分達とは大きく違う生活をする者、教養の無い者など

自分より何かの部分で劣っている者を、彼等は「卑しい」として区別した

その結果、区別だったはずの「卑賎視」は、差別という貧富の差、生活水準の差

によって特別視するようになったと想像します


被差別民の多くは特別な「罪」を犯したわけではありません


嘗て まつろわぬ民 と言われる人々が居ました

権力に阿(おもね)ることを善しとせず、漂白する民の事をいいます

その漂白民の多くは【製鐵】【産鉄】に従事した被差別民でした

なぜ彼等は漂泊の道を選んだのか・・・・

日本の統治(争い)の始まりは、鉄利権の争奪から起きたと私は

考えています

鉄を制する者は【ヤマト】を制する

石器から銅器へ、そして鉄器の時代へと移行するとき、それまで

鉄の生産にかかわってきた多くの山の民が武力によって追放され

支配権力に抗(あらが)った者たちは、新たな産鉄地を求めて漂白した

まつろわぬ とは・・・「まつりにかからわぬ」ことから

まつらわぬ→まつろわぬ になったと想像しています

政(まつりごと)とは、祀る事であり奉ること、纏(まつ)ることでもあります

自由に生きた人々を縛り(管理し)、政治権力の手足となる事を強いられることに

我慢できなかったマイノリティーな人々は、後の世に「差別の対象」とされたと

私は考えます



歌舞音曲に従事する者を差別視していたことは知られていますが

もとは歌舞音曲が原因ではなく、それを演ずる者が対象だった気がします

古代では「舞う」というのは神に仕えるシャーマン(巫女)の役目で、その対象に

なる神というのが、自然神である【八百万の神】でした

しかしヤマトの国に「大王」という統治制度が根付き、自然神信仰から

人格神信仰へと変わり、八百万の神に奉仕する巫女を蔑視する風潮に

なったのではないでしょうか・・・

あの卑弥呼も古代シャーマンだったとされ、神と交信できる者こそ民衆を

統べる(統治できる)者として認知されていました

そんな特殊能力(巫術)ができるものを排除する狙いが、新たな統治者である

古代天皇家にはあったと推測できます


天皇が崩御すると古代では【殯(もがり)】と呼ぶ祭事を行いました

殯というのは棺(ひつぎ)を一定期間安置して、肉体から離れた霊魂を

呼び戻す目的で行う祭事を言います

その時に行ったものに巫術師が関わっていました

その巫術を統括する役所が【遊部(あそびべ)】といわれ

そこを統括していたのが【土師氏(はじし)】で、後に「穢れ」に関わっていると

思われるのを回避するため【菅原】という姓に改名しました

もちろん学問の神様と言われている【菅原道真】も土師氏末裔である

菅原道真が遣唐使を廃止したことによって、新しい天文学が日本に入ってこなくなり

その機に乗じて既存の天文学と道教・密教を加味して天皇や公卿に取り入り

陰陽寮を独占したことから、陰陽師賀茂氏・安倍氏が日の目を見たのも運命的な

ものを感じてしまう



天の岩戸の前で踊った「天のうずめ」もおそらくは巫術を行うシャーマン

だったと推測します

死んだ「陽」の再生を、踊り祈った形がご存知の天の岩戸のシーン

ではないでしょうか・・・

巫女はシャーマン(術者)であり歌い踊り祈る・・・ここから歌舞伎や能、浄瑠璃など

多くの古典芸能が開花したのだと思っています

その事を一番よく知っている階層に暮らす人々が揶揄して広めた言葉が

「河原もの」であり「河原乞食」だったのではないでしょう・・・

出雲阿国も元をたどれば、出雲の巫女だった気がします

白拍子と聞くと「遊女」という発想が起こるのも、巫女の衣装が白を基調

にしたものからの連想で、巫女を蔑視したい者の思惑が見えてきます


芸能と聞くと古いイメージですが、芸能は古代では神事としての巫術をさし

新たな信仰(人格神信仰)にとって、邪魔な存在だったという事かもしれません

もしかすると、天皇家より伝統芸能の家系の方が由緒正しいかもしれませんね(笑)


Posted on 2017/08/31 Thu. 22:39 [edit]

category: 歴史

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