藤原氏の出自 2  


新益京を造営したのは持統天皇であり、その京を捨てたのは元明天皇です

平城京遷都の勅を出したのは元明天皇の皇子・文武天皇が崩御した翌年

遷都と文武天皇の崩御に因果関係がありそうだ・・・


天孫降臨神話を創作してまで孫の文武天皇に譲位した持統天皇が崩御して

その5年後に25歳の若さで亡くなった文武天皇・・・・

その死後、慌てて平城京を造営した理由とは・・・

「けがれ思想」だけでは説明できない、何かがあった可能性もある


私は天皇が「即位の儀」を執り行わず、実権を握り「政治」を行うことに

疑義を感じている

いわゆる【称制(しょうせい)】と呼ばれるものだが・・・

選挙制度など無い時代であっても、支持するものが多ければ即位することに

大きな障壁はないはず・・・

即位出来ない理由の多くは、継承権が無い、若しくは無いに等しい場合である


私の「妄想」であるが、持統天皇に「次期天皇継承権」が存在したかどうかより

女性天皇と言う制度自体が存在していなかった可能性があるのだ

日本書紀の記述から、推古・皇極(斉明)天皇という女帝が居たとされる

しかしその記述を残したのは持統天皇の時代である

それまでの「国書」に相当するものは「遺されていない」

であるならば、存在自体無かった可能性も否定できないのだと・・・


もう一つは、持統天皇が天智天皇の娘などでは無かった可能性だ

天皇の娘ではなかったなら、皇位継承権など有る訳が無い・・・

日本版・易姓革命の可能性も否定できない事になる

あくまでも私の妄想ですが・・・


天皇皇后が「仲睦まじかった」とされることに違和感を感じる長屋の爺

とくに「表面に出てくる」 強い皇后、優れた皇后、慈愛に満ちた皇后という

歯の浮くような美辞麗句で語られる「過去の皇后」の伝承は信じられない

強く優秀な女性なればこそ、夫である天皇が保持していた権力に「固執」

するのではないだろうか・・・・

たとえ、自身に皇位継承権が無くとも・・・・

そのような「権力欲」の強かった持統天皇が造営させた「新益京」を

わずか数年で捨ててしまったのには理由があるはずだ

平城京より平安京よりも大きな都城を捨てるには相応の理由があるはずだが

日本書紀は「黙して語らない」

日本書紀が日本の歴史「皇統史」の真実を書き残したとするならば、これほど

不可解な話は無い

わたしが日本書紀をバイブル・物差しにする専門家に不満を感じる大きな

要因なのである

肝心な疑問点は「棚の上にあげておいて」、日本書紀に書いてあるから「真実」では

誰も納得しないのではないだろうか・・・

私は文武天皇がどうして25歳の若さで死んだのか?

そのことが大きなヒントになるのではないかと思っている

本当にこの時代ヤマトが一つになっていたとは思えない・・・

戦乱と呼ぶには少し違う気がするが、何か反目するような

小さな内乱・騒動が起きていた可能性もある



余談だが、天武天皇に負け自害したとされる天智天皇の後継者・大友皇子

山前(やまさき)で自害したとされているが、その場所も埋葬された場所も

正確には特定されていない

首を斬られて天武天皇の前に差し出されたことになっている

ところが日本各地に「大友皇子」の逃避伝承が遺されている

身代わりに後を託し、蘇我赤兄・蘇我大飯らに守られて愛知県、千葉県

に逃れたというのである



たしかに愛知県三河地方にも大友皇子が隠れ住んだ「館跡」とされる

伝承石碑が遺されていて、近くには神社も建っている

【大友天神社】

(由緒) 壬申の乱の後、従者・長谷部信次などとこの地に流遇し草案を結ぶ

信次は皇子のために一祠を創建奉納し之を【天神宮】と称す

その所在地を「大友」、部落を「長瀬」と呼ぶ

(近隣の「小針1号古墳」は大友皇子の墓だと言う伝承もある)


大友皇子(天智天皇嫡子)も文武天皇(元明天皇皇子)も偶然に

25歳の若さでこの世を去ったことになっている

元明天皇が新益京を捨てた理由もその辺りにあるのかもしれない

文武天皇がどういう「死」を迎えたかで歴史の見方が大きく変わると

私は考えている。

Posted on 2017/07/07 Fri. 22:46 [edit]

category: 歴史

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藤原氏の出自  

楽しい時間の後はどんな時も、「寂しさ」だけを残していくものである

と言っても、とても楽しい「枯れたオフ会」でした(笑)

集まった4名が店で5時間ほど楽しく宴会をしました

取り敢えず生ビールで乾杯、その後3名で(焼酎3本)呑み続け

「サメの心臓」なるものを食し・・・・

酒も料理も、店の従業員の対応も「満足」でした

店を選んだ私も初めて利用する店で、皆さんの期待に応えられたか

ちょっと心配ではありますが・・・

ホテルの方は「シングル」で予約しましたが、ホテルの好意で

ツインの広い部屋に変更してくださいました

親父様とホテルに帰って焼酎(ストレート)を呑みながら楽しく歓談できたのも

ツイン部屋だからできたのかもしれません


私はオフ会とは「一期一会」だと言う認識で参加しています

二度と行かないとかそういう話ではなく、人間何時どうなるかわからない

そういうこの世の中で、「縁(えにし)」があって語り合える

そんなチャンスが何度も訪れるかどうかなど、神さましか知らない事でしょう

だから縁があった時には「楽しく」をモットーにしてきました

そういう意味では今回も「楽しゅうございました」


他の方が顛末をお書きになるかどうかは分かりませんが

私にとっての今回の集まり(オフ会)はとても有意義でした。



【藤】

ふじ・トウ

この文字の成り立ちを一年以上探してきましたが、不明のままです

私の持っている漢字に関する書籍・辞書にも、成り立ちがありません

中国にも無い文字でありながら、和製漢字にも存在していないようです

元の文字は 【滕】 トウ わ・く

 「藤」 トウ ふじ という文字はいつだれが創作したのでしょう?

滕の文字が「音符」として 「トウ」なのだから「、トウ」 と読むことに

なんら問題はありません

しかし・・・なぜ【ふじ】とよむのでしょうか・・・・


この「藤原」という文字も【日本書紀】が初出なのです

ただし・・・藤原京ではなく藤原宮として記述されています

実際には【新益京】と言うのが本当の京の名前ですが・・・

近世になって「藤原京」と呼ばれるようになったものです


私は藤と言う文字は持統天皇以降の時代に「創作」されたと

思っています


滕(とう)の原(はら)では意味が不明ですが、唐の原だったとしたら

おそらく「とうげん」と呼んだかもしれません

「とうげん」と聞けば、桃源郷を連想します

日本で最初の条坊制の「都城」であった新益京ですから

唐の都城を参考にしたことは想像できます

唐の平野にある都城のように立派な都城を造ることこそ

ヤマトが目指した「夢」だったのかもしれません

夢の唐風都城・・・桃源郷でもあったのかもしれません

しかし、「唐の原」や「桃源」では都らしくない・・・

そこで命名されたのが「新益京」という都だった

日本書紀を信じるならば、694年に遷都されたとされるが

実際には704年に完成したとされ、完成から4年後の708年に元明天皇より

遷都の勅が下り、710年に平城京に遷都された



どうして平安京・平城京より大きかったとされる新益京が捨てられたのか

藤の文字と藤原姓と藤原宮の「なぜ」は研究者も世間も大きく取り上げません

現代の皇室問題と同じ匂いがします(笑)


おそらく藤原という「名づけ」は平安初期辺りの「後付」だと私は考えます

【不死・我・等】

我等は死なず 

そして・・・【富士・我・等】

我等は富士の如く、ヤマトの頂上に君臨する

日本書紀に「霊峰・富士山」の記述はほとんどありません

歴史から抹殺された日本の霊峰の理由は・・・

藤原一族が「ふじ」という音を盗んだからではないでしょうか・・・


新益京という桃源郷を造った勢力の衰退が原因だったのか、それとも

捨てざる得ない重大な理由があったのか・・・・

(つづく)

Posted on 2017/07/03 Mon. 21:30 [edit]

category: 歴史

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どちらを選択するかの理由とは  


プロ野球は読売ジャイアンツが13連敗をしたと大盛り上がり

その陰で10連敗をして後を追うヤクルトスワローズの姿が

何とも寂しさを感じる(本日、交流戦初の勝利で連敗ストップ)

勝っても負けても話題になる巨人、勝てば珍事、負ければ当然の

弱小燕軍団との「扱い」の差はどういう事なのか・・・・


プロ野球選手が初めてホームランを打つと、そのボールは観客から

本人に戻されると言う(あくまでもボールを拾った観客の方の好意ですが)


私はふと考えてしまった

そのボールは確かに選手が打ってホームランになったボールなので

選手本人にとって掛け替えの無い貴重な品である

ホームランになる前の投球がファールになっていれば、たった一度投手が

投げて、打者が打ったボール・・・

たまたま審判のボール袋に入っていたボールが使われた・・・

運命のボールと言えばそれまでですがw


では・・バットはどうなのか?

ボールにばかり興味や関心が向いてしまうが、打ったのは打者であり

そのホームランを「生んだ」のは紛れもなく「その時のバット」なのです

なぜプロ初ホームランのバットに光が当たらないのか?

どんなバットでもホームランになったとでも言うのだろうか?

それまで折れずに選手が使い続けてきたバットなのに?

どうでも良い事かもしれませんが・・・気になりますね(笑)


そこで、本題です

天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は「八岐大蛇」の尻尾から出てきたとされています

別名・草薙の剣(くさなぎのつるぎ)のほうが知られていますが・・・

八岐大蛇を退治し蛇の尾を切り裂いたのは・・・十拳剣(とつかのつるぎ)である

別名「天羽々斬(あめのはばきり)」といいますが、草薙の剣に当たって刃が欠けた

とされ、この剣からアマテラスが三女神を生んだとされる

八岐大蛇を退治した剣より、出てきた方の剣を「神器」にしたというのだが・・・

バットとボールの関係に似ていませんか?


天羽々斬(十拳剣)は【石上神宮】に祭られていると言います

石上神宮は「物部氏」が祭祀を行っていたされ、ヤマトの武器庫と

して重要な役割を果たしていたという

石上神宮は出雲国造と同じ【神主の忌火成り神事】が行われたという

*神饌を煮炊きするため、火鑽(ひきり)によって神聖な火を得る神事のこと

天皇家と出雲国造(千家氏)、そして石上神宮(森氏)の関係は興味深い・・・


一方、草薙の剣は【熱田神宮】に祭られています

由緒では、素盞嗚尊は、ヤマタノオロチ退治の際に、ヤマタノオロチの尾の中から

草薙剣を発見し、天照大神に献上した

天照大神は、その草薙剣を天孫降臨の際に迩迩芸命(ににぎのみこと)に授けた

日本武尊は、草薙剣を持って蝦夷征伐を行い活躍したあと、妃の宮簀媛命のもとに預けた

宮簀媛命は、熱田の地を卜定して草薙剣を祀った



と、言われていますが・・・神器を蝦夷討伐に使ったり、大事な剣を預けたりと・・・

普通の剣のような扱い方をされているところが、なんとも解せません

何よりそんな大事な「神器」を祀る【尾張氏】について、記紀は無視しています

天皇家にとって「重要」だったから三種の神器の一つを祀っているのでは

と思うのはおかしいですか?

三種の神器が祀られているのに、熱田神宮にも明治までは天皇の参拝が

確認できません(伊勢神宮と同じ?)

*1868年(明治元年)9月27日:明治天皇
1878年(明治11年):明治天皇
1906年(明治39年):皇太子嘉仁親王(大正天皇)
1916年(大正5年):大正天皇
1946年(昭和21年):昭和天皇
1991年(平成3年):今上天皇・皇后
2005年(平成17年)7月12日:今上天皇・皇后(2005年日本国際博覧会行幸啓の折)


ちなみに、明治以前は【熱田神社】と呼ばれ、神宮とは呼ばれていなかった

三種の神器が祀られている社を「神社」と呼ばせていた天皇家って・・・

不思議な気持ちになりますね(笑)

三種の神器と神宮&神社については次の機会に・・・・。


Posted on 2017/06/11 Sun. 21:31 [edit]

category: 歴史

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伝承と推理  


公式文書だから信用できるのか?

現代の政治事件や政治スキャンダルを観ても、否定的な意見を

持たざる得ない・・

昨今、巷間で噂になっていることが事実と思われても、国家が正式な

文書として後世に残すことは無い

なぜなら権力側にとって、残すことに意味を持たないものは、残さないからである

「憲法違反の疑いを国民は危惧していた」

そんなことを公文書として残す道理が無い・・・・ですよね


愛知県三河地方にある言い伝えが遺されている

第36代 孝徳天皇の皇女・綾姫が、大化5年(649年)都から遠い地である

西三河の浜辺に【漂着】したという

孝徳天皇は女性天皇とされる皇極天皇の譲位によって即位した天皇で

中大兄皇子が即位しなかったので、皇極帝の弟である「軽皇子」が即位

することとなった曰く因縁のある天皇である

「大化の改新」の時代の天皇だが、謎の多い天皇でもある

実際の政治は中大兄皇子が仕切っていたとされ、改革に対し

周囲に不満や反感を覚えるものが多かったと言う

その代表が「蘇我入鹿」を後ろ盾とした【古人大兄皇子】だったが

反乱計画があると密告する者が現れ、中大兄皇子の手によって

皇子一族が滅ぼされてしまった

さらには蘇我入鹿暗殺に加担した「蘇我倉石川麻呂」が中大兄皇子の

暗殺を計画したとして追い詰められ、自殺に追いやられていて、その後

妻子も後を追ったとされる

その石川麻呂の事件が起こったのが 大化5年(649年)なのである

翌年には孝徳天皇は新しい宮(難波長柄豊崎宮)に遷っていることから

皇女が流されたり、追放になる理由が考えられない


私の妄想であるが・・・

もしかすると、石川麻呂の娘(姫)が孝徳天皇に仕えていて、父親に降りかかった

冤罪によって、自身の身の危険を感じて逃げ出した可能性もある

孝徳天皇は「置き去りにされた帝」であり、孤独死したと伝えられている

中大兄皇子が皇極上皇、大海人皇子、孝徳天皇の皇后を連れて

ヤマトに帰ってしまったと言うのだから・・・

孤独死だったのか、命を縮められたのか・・・

もしかすると、孝徳天皇の皇女だったかもしれないが、孝徳天皇の皇子・皇女

の記録が見当たらないので、断言できないが・・・

浜の里人によって秘密にされ大事にされて余生を過ごしたのかもしれない


大海人皇子(天武天皇)と三河地方は深いかかわりがある

天武天皇の皇子・草壁皇子が三河の地に住み、此処で亡くなったという

伝承があり、火葬した場所や墓まで存在するという

都で持統天皇の皇太子だった草壁皇子・・・病死した草壁皇子とは

いったい誰だったのだろうか?


不都合な真実は記録に残されない

最初から草壁皇子ではなく、持統天皇が天皇位を継ぐ意図が有りや無しや

なぜ女性天皇だったのか?

権力を一族のモノで占有したい陰謀が決意させるのかもしれない


歴史はパーツの大きく欠けた「ジグソー」である

どのパーツを何処に嵌めるのかで、見えるものが変化する

何を信じて、何を疑い、何をどのような角度から見るのかによっても

不思議な景色を見せてくれる

歴史に絶対も無ければ、100%も無いのである

誰もが歴史家になれて、誰もが旅人になれるのである。

Posted on 2017/06/09 Fri. 22:42 [edit]

category: 歴史

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大河ドラマ  


大河ドラマを観ている方もいらっしゃることと思う

私も嘗ては楽しみに観ていた時期がある

父親が見ていたことも影響して、一作目(花の生涯)から

11作目の国盗り物語まですべて分からないながらも観ていた


その後、社会の波にもまれて観る機会が無く、所帯を持ってから

25作目の独眼竜政宗~26作目の武田信玄、32作目の炎立つは

観ていたが、その後は観ることが無くなった


どうして観なくなったのかと言うと・・・

興味がない題材の作品が多かった事

さらに、学芸会と見まがうばかりの主役に落胆したこと

自分の中の歴史観と次第に「ずれ」が生じてきたことが

主な要因である


腐っても鯛 という言葉がある

NHK大河ドラマは最高のキャスティングと時代考証があって

成り立つものだと私は思っていた

若いタレントやお笑い芸人、歌手もどきが主となっては

私にとって観る価値が無いに等しいのである


NHK大河の功罪は幾つかあるが、もっとも貢献しているのが

「所縁の地」への地域貢献ではないだろうか

大河で出てくる「ご当地」へ足を運ぶ視聴者も多いと聞く

地域おこし、地域活性の一役を買っていると言える

それだけでも大河が制作されるメリットは十分なのかもしれないが


歴史という題材は本(脚本)を書く人にとって、好都合なことが多い

歴史の真実は「その時・その場所」に立ち会わなければわからない

という大原則がある

そういう点から考えても「正しい・正しくない」という判断基準は不明確だ

その?を上手に脚色して「ドラマ(フィクション)」は制作される

私のような「偏屈爺」からすると、【つっこみどころ】が満載ではあるが・・・

批判するために見るほど酔狂な爺でもなく、観る価値が有るか無いか

という個人的問題だろうけど・・・


今回の「おんな城主直虎」を作るなら、戸次道雪の娘・立花誾千代を

題材にしたほうがより史実に近いと思うのは私だけだろうが・・・・

立花誾千代(ぎんちよ)は正式な手続きを経て、豊後・立花城の城主と

なった女性である

父親は「鬼 道雪」と異名で呼ばれた戸次(べっき)鑑連、誾千代は7歳の時に

父から家督一切を譲られて正式な城主となった人物である

実在が疑われる「直虎」より真実味があると思うが、視聴者にとって

真実か虚実は意味など無いのだろうが、創作と脚色では「説得力」

というものが大きく変わってくると私は思う


わずか4~500年前のことが正確にわからないのが歴史である

男だったのか女だったのか、同一人物だったのか別人だったのか

それすらわからない日本の歴史・・・

1000年前の皇位継承争いの真相など、解らなくて当然である


まして2000年前の古代日本の真相など・・・・

卑弥呼が「名前」だと思っている人も居る

私は「呼称」だと考えているが・・・それすら「憶測」でしかない

邪馬台国を「やまたい」と呼んだのも後世の人間であり

実際には何と呼ばれていた国だったかも謎である

古代中国式に発音すれば「ヤマドゥ」だと言う・・・・


何かを基準にするから「判断」できるのであって、「判断基準」そのもの

がどうなのかという事だと考えます

ボタンの掛け違いは歴史に限らず、人生でも起こっていることですが

今の日本では、こんな話は意味が無いですなぁ・・・・

Posted on 2017/06/07 Wed. 00:26 [edit]

category: 歴史

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