歴史の流れと故郷  





日本人で「我が家は武家の末裔」であると明言する人も多い

日本の武士とその家族は人口の一割弱とも言われる

幕末の人口が推定3000万人だそうだから

200~300万人程度だろう


さて・・・ここからが問題

その多くの武士と家族はどうなったか?

今まで仕えていた領主が失業したのだ、当然武士も家族も

生きてゆく糧が必要となる

しかし、武士とは刀を腰に差し、農民から搾取する生活をしてきた

そんな武士階級の人間が自分で「食い扶持」を確保するのは

ほとんど不可能に近かったと思っている

その中で、薩長土肥の官軍に属する「元武士」の中でも

一握りの恵まれた元武士などは官職などに就いたようだが

賊軍と言われた旧幕府の元武士たちは、官職にもつけず

その日暮らしを強いられたのではないだろうか・・・・

売れるものなら何でも売って、日々を食いつないだ人も居ただろう


そんな時代、刀を鍬(くわ)に持ち替えて土と闘った人が居た

屯田兵と言われる人たちや開拓移民と呼ばれる人たちだ

新政府軍に加担した武士の中でも、倒幕に積極的だった人も居れば

旧幕府に同情的だった人も居た

世渡りの上手な元武士も居たかもしれない

反面、長屋の爺のような「世渡り下手」もいただろう(笑)


そういう人たちが新たな生活を求めたのが蝦夷地(北海道)

という土地だった

大多数は東北各地の旧家に仕えた武士と家族たちだったが

近畿や山陰などの土地からも入植した

なぜ積極的に未開の土地に移り住んだのか?

その理由は新政府による次のような方針が決まったからなのだ

* 1869年に制定された「移民扶助規則」では、移住した農民に

家屋・家具・農具・種子などを支給し、3年間の食料扶助を給与する

ことが定められていた。

職も住居も失い途方に暮れていた元武士には一縷の望みをかけるしか

生きる術はなかったのかもしれない


* 宮城県より亘理伊達氏(仙台藩の分家)が集団移住をしてできた町が

北海道伊達市

* 奈良県吉野郡十津川村で十津川大水害が発生し政府と県の手厚い保護のもと

1890年にトック原野(徳富川流域)に移住したのが、北海道樺戸郡新十津川町

* 仙台藩白石領から藩士の一部が入植したのが、北海道札幌市白石区

* 明治17~18年、釧路村を分割してつくった村に鳥取県から北海道へ

戸数105戸513人が移住したのが現在釧路市に編入された「鳥取村」です

また、足寄(あしょろ)郡足寄町に「鳥取」という地名があります


北海道民が反権力・反政府的な政治志向が強いのもこういう理由があるのかも

しれません (あくまでも憶測ですが 笑)


私の母の実家が鳥取藩士で旧家には刀・槍・鎧一式・薙刀・長持など

があったと母や親族から聞かされました

父方は秋田からの入植で下級武士の出自だと言います

とうぜん我が家では先祖の話になると、母の独壇場でした(笑)


武士の家系も色々あって、戦災で跡形もなくなった今は証明する

事などできなくなりましたが・・

とにかく出自などどうにでも 騙る(かたる) ことができますが

どう生まれたかではなく、どう生きているかが大事なのだと・・・・

わたしは思っています


出自を騙ってもすぐに「身バレ」するのを、日本ではこう表現します

【 お里が知れる 】

モノノフのDNAを受け継いでいるなら、相応の生き方をするはず

私は常に「恥じない」ことを肝に銘じています


幼いころから親に、こう言われ続けてきましたから・・・

「恥を知れ」 「我が家の顔に泥を塗るな」 「男の自覚を持て」

「それでも 男なのか」


いまではナンセンスでしょうけど・・・

昭和の「モノノフの末裔」はこうして育ってきたのです。
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Posted on 2017/08/07 Mon. 08:06 [edit]

category: 歴史

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