FC2ブログ

事実という思い込み  


私が神さまや神社の事について何か話すと

決まって返ってくる言葉が「あり得ない」「何の根拠もない」

そういう言葉が殆どです(笑)


私は間違いなく物事を知らない爺ですが、押し付けられた

物事・由緒、定説はできるだけ疑ってかかる事にしています

ゼロでない限り1%でも可能性が有れば、その可能性について

私は考えてしまいます


この世の中の事象、歴史的諸説には必ずと言っていいほど

「理由(わけ)」があります

都合の良い解釈で構築された通説・定説は魅力がありません


多くの方は現代感覚で全てを推し量ります

菅原道真公が怨霊だと認めたくない人は大勢いらっしゃいます

「だって学問の神様が【祟り神】である訳が無い」・・・というのが理由です

祟り神・怨霊というのは我々「鬼の子孫」から観ることではありません

平安時代前後では「世の中」というのは【宮中】のことであり

一般社会の事ではありませんでした

5位以上の貴族が「ひと」であり、従4位以上の人が「良いひと」でした

その中の一握りの公人が「公卿」という特権階級者であり、権力者だった

そういう「良いひと」からみてどうだったのかが「物事の本質」であって

下賎の「人もどき」や「鬼」とはかかわりの無い話だったのです


伊勢や出雲、大宰府、宇佐、熱田が同じ形式になっています

川を渡り、折れ曲がった参道、不可解な拝殿の位置・様式など特徴があります

祟り神を祀っている形式だと言うと、一様に「そんな馬鹿な」と言われます


歴史通説の伝承はあくまでも【勝者の言葉】で綴られてきました

とは言っても、私が正しい事を語っているとは証明できませんから

信じる必要も無いですけどね(笑)


例えば、一番わかりやすい例が明治神宮ですね

この場所は彦根・井伊家の下屋敷だったところで、22万坪の荒れ地で

現代のような木々に囲まれた場所ではなかったと言います

国内や台湾、朝鮮から集められた木々17万本で造られた人工林です

そんな場所に神社を造るなら真っ直ぐな参道を木々が囲むように

造る事が当然であり、参道を曲げる必要が無かったと思っています


明治天皇の墓所は京都にありますから、此処に神社を造り祀る必要が

あったかどうか・・・・どう思いますか?

それまでの天皇のほとんどが神社に祭られなかったのに

どうして明治天皇だったのでしょうか・・・


祀るには祀るだけの「理由」が無ければなりません

理不尽な目に遭った、不都合な死に方だったとも考えられますし

もしかすると権力者たちの不都合が存在したことを匂わせます


日本の歴史では初代天皇は 神武天皇 とされています

この神武天皇を祀る神社は 橿原神宮 です

橿原神宮は1890年(明治23年)に明治天皇によって創建されています

どうして初代天皇が祀られていなかったのか?

どうして皇祖が祀られている伊勢に参拝しなかったのか?


天皇家史上初めて 伊勢神宮 に参拝し、初代天皇を初めて祀った天皇が

明治天皇なのです





神社を造立するのは庶民の家を建てるのとは次元が違います

家が建っていたからとか、池があったからとか、窪地だったとかは

理由になりません

神さまを祀るのに庶民(ひとでなし・鬼)の都合など無きに等しいのです

現代人の感覚で神社や神さまを量ると大きなことを見落としてしまいます


曲がった参道を造るには、それ相応の理由があったはずです

しかし、研究者や歴史家は取り合ってくれません

さらには、「そういう確かな決まりはなかった」とまで言います

どうしてわかったのか? 聞いてみたいですけど・・・


オオクニヌシは祟ったと日本書紀は書いていますし、アマテラスも同様に

天皇家に祟ったと記されています

どうして祟ったと書き残したのでしょう?

菅原道真公も大怨霊として書き残されていますし、黙っていられない

人々が存在したということかもしれません



現在 神社通の人が参拝の作法を自信を持って語りますが

これこそ明治政府が勝手に決めたものであり、江戸時代までは

確立していなかったと言います

神仏習合であって、寺の境内に神社が同居していたのですから

作法だけが宗旨宗派を問わなかったなどと言うのも信じられません




国家神道と神社神道が曖昧になったのは明治からです

明治は日本人にとって本当に「素晴らしい転換期」だったのでしょうか?


NHKが躍起になって「明治は最高」「明治こそ日本の原点」みたいな

番組作りをしていることに気づいていますか?

最近の大河ドラマが幕末を題材にしている理由が不可解です


NHK は天皇家を「王家」などと称して、崇拝しているようには見えませんし

かと言って、天皇家に反抗しているようにも思えません

現天皇家の意向に沿って、天皇家の一部分を否定しているようにしか

私には思えません

ぶっちゃけて言うなら 明治=天皇家 の始まりである

そういう意図が見え見えに感じるのは私だけでしょうけど・・・

つまり、江戸後期までの日本の治世を否定するかのように


江戸時代には大きな内戦も戦争も起きなかったのに

(例外的なものはありますが・・・)

明治になってからは多くの日本人の命が失われました

本当に江戸時代は「悪」だったのでしょうか・・・



私は天皇家のための「維新戦争」だったと思っています

尊王攘夷が勤皇討幕に衣替えした理由は謎のままです

光孝天皇は強硬な攘夷論者でした

しかしながら、光孝天皇亡きあと西国諸藩は攘夷から倒幕にシフトしました

敵が異国では無くて 徳川幕府になったのですから、どうなってしまったのか

現代の有識者は勤皇の志士たちを称賛しますが、ブレまくりの忠臣たちであり

そんな維新の志士を称賛する現代人の思考が理解できません

つまりは、勝てば官軍 そのものではないでしょうか?


勝った者の言い分は何物にも勝るという典型でしょうね

過去の日本の歴史がそうであったように、勝者にのみ「発言」が許されるのです


日本を壊したのは大東亜戦争のアメリカばかりではなく

そのずっと以前に明治政府が日本を壊したと私は思っています


江戸が首都になったのにも理由があり、政治 経済 外交において

京都が都で不都合な理由があったとは思えません

本気で攘夷を感じていたなら、内陸部に位置する京都のほうが

立地としては好適だったと考えています

黒船が沿岸に見える景色を見て、海の近くの首都は危ういと誰しも

考えるでしょう

しかし、異国との共存を考えるなら 江戸 が首都の方が都合がよかった

そういう事かもしれません

そういう意図が有ったからこそ、江戸城無血開城になったのでは?

しかし倒幕で凝り固まった収まりのつかない勤皇志士たちのガス抜きが

会津討伐だったと私は見ています

首都が薩摩 長州 土佐 等の倒幕派の領地に近い関西では不都合な理由が

あった?わけでもないでしょうから・・・・



わずか200年足らずの過去さえ確かにできないのが歴史というモノですから

古代の歴史など簡単にわかるはずも無いです

そういう事で長屋の爺も「言いたい放題」の歴史を騙れる・・・・

そういうことなのでしょう(笑)



関連記事
スポンサーサイト

Posted on 2018/02/21 Wed. 22:56 [edit]

category: 私の思い

tb: 0   cm: 2

コメント

承認待ちコメント

このコメントは管理者の承認待ちです

 |  #
2018/02/24 03:46 | edit

おはようございます。
体調はもう大丈夫ですか?

よく奈良へ行きます
大阪から葛城の山を抜け
小高い高速を走ってると
目の前にぽつぽつと「御陵」がみえます。

どれが誰? なんて分からないんですが
気になった土地や歴史の事は
チョット調べてみたりして
初めて知る事ばかりな無知ぶり(笑)

先日、橿原神宮が何故そこに建ったかってのを
読んでたら、
『橋のない川』の住井すゑ さんが
畝傍山周辺の土地について
面白そうな対談を残してはりました。

今、菅原文太の本を続けて読んでます
対談になってるものばかりですが
色んな人の考えを聞くのも勉強になります。

江戸末期から明治、歴史、政治
知れば知るほど オモシロイですね

と言うか、どれだけ大きな
力で変わっていったかと思うと
簡単に下々の人間が操れてる場合じゃないなと
目から鱗ばっかりで   
ドライアイになってます(笑)

Nちゃんでした



URL | Nちゃん #-
2018/02/22 07:39 | edit

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://tukuyomi2017.blog.fc2.com/tb.php/128-f89e28c1
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

プロフィール

最新記事

最新コメント

月別アーカイブ

カテゴリ

訪問者

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

ブロとも申請フォーム

QRコード


▲Page top