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貧困な意識


何とも言いようのない事件が起きた

高校生がビルから飛び降り、下を歩いていた女性が

巻き添えで亡くなった・・・・


私は心中と飛び降り・飛び込み自殺だけは容認できない

本人が勝手に死ぬのを他人がとやかく言う権利も資格もないが・・・


他人や家族を巻き込む死に方は「テロリスト」と何ら変わらないと

わたしは常々思っていて、死ぬなら勝手に一人で静かに死ねと

心の中で叫んでいる


死に方ならいつでも指南してやるのに

死ぬイメージなら頭の中で数えきれないだけシミュレーションしたし

実行もしてみたが、運悪く生き恥をさらしている


そんな私が言うのもなんだが、自殺するのは勝手だが巻き添えに

なった人は本当に哀れで浮かばれないだろう・・・

生きたいと願う人間が死ぬことは悲しいことであり、だれにも

生きたいという願いを奪うことは許されない


正直な話、死者に鞭うつのは気が引けるが、敢えて言うなら

「下に人が居ることを想像できなかったのか」

そういう言葉を発すると、必ずバカな輩はこう言うのだ

「死ぬのに他人のことなど構っていられるか」

そんな脳みそだから昼日中、ビルの屋上から飛び降りるのだと

気づかない可哀想な奴・・・・


散る桜 残る桜も 散る桜


死ぬには、相応しい場所と、佳き日時と、方法があることを

多くの人は知らない



知っているのは人知れず死を迎えることができた人間だけかもしれない






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親しき仲にも礼儀あり


散歩していたら知人にばったり・・・

家の前で掃除をしていたら近所の住人が通りかかった

駅のホームで隣人と同じ電車の隣の席に・・・



こういう場合、いきなり会話を始めますか?


散歩中に知人とばったりしたら「挨拶」しないの?

近所の人が通りかかったら「挨拶」しないの?

駅で隣人と偶然一緒になったら「挨拶」しないの?


きっと現代人は「しないかも」と言うのだろう・・・・

と、私は思っている


親しき仲にも礼儀あり

私は嘗て「挨拶のないコメントは認めないし、即削除」などと

言っていた時期があります

他人の家の玄関では「チャイム・ノック」は常識なのに

他人のブログなどを訪問し会話(コメント)するのにいきなり本題

に突入するって、玄関扉をいきなり開けて、本題を話し始めるようなもの

そう考えていました

仕事でも仲間や弟子に「挨拶のできない人間は信用しない」などと

自我を通してきた偏屈爺なんです


でも・・・最近は「どっちでもいいや」と半ばあきらめ状態です

これってFBとかツイッターの影響なんでしょうかね?

挨拶なしに他人とかかわる習慣って・・・・


家族が朝起きて最初に交わす会話が「おはよう」ではない家庭って・・・・

想像できません

朝会えば「おはよう」、日中なら「こんにちは」、夜なら「こんばんは」

嘗ての日本では「挨拶」は基本・常識でした


最近の小・中学生でも道ですれ違う時にきちんと大きな声で

挨拶してくれますが、日本の大人は挨拶するのが嫌いなようで

別に挨拶しても「何か減る」わけでもないでしょうに・・・


そんな、いまさら言う事でもない常識が失われて行ってます

だからと言って私が固執しても何ら状況は変わりませんけど


ネット=仮想空間、非現実社会だからという認識なのかもしれません

そういう意識の人に現実社会の常識を説いても意味など無いでしょうから


私が20年近くネットとかかわってきて感じた変化ですので正しいとは言いませんが

20年前のネット交流は半現実空間でした・・・

ネットで知り合った人と年に数回会って親交を深めるのは当たり前

呑んで、遊んで、励まし合って・・・・

そういう形は稀有になったという事でしょう


キャッチボールは相手にボールを投げることから始まります

ボールを投げずに石を投げるようなコメント、リツィートも見えるのが

最近の状況ですね

むず痒くなるような「歯の浮くようなコメント」ばかりに慣らされて

正直コメントは異端児扱い(笑)


コメント投稿するのに「名無し」だったり、挨拶なしに記事内容を全否定

異論があるのだったら、自分のブログに書いて「招待状」をよこせ

それが私の信条ですが、そういうコメントを書く人間は姑息で卑怯者ですから

自分のブログは明かしませんし、書いていないで見る専門の人も多いですね


実名まで「名乗れ」と言っているわけではありません

批判するなと言うつもりもありません

最低限の常識をもって・・・・関わってほしいだけ


何のこと言ってるのか不思議な方もいるでしょう

最近ちょこちょこ名無しの言いたい放題批判コメントが投稿して

即削除してますが、名無しは内容如何にかかわらず即削除

挨拶なしで一方的に批判するコメントも閲覧者への配慮で

削除しております


私のブログは私の主観で書いております

気に入らなければ「見ない」「訪問しない」「かかわらない」ことを

お勧めしているので悪しからず(笑)


※善男善女の閲覧者の皆様は 酔っ払い爺の戯言ですので、深く考えず

にスルーしてくださいますようお願いいたします。

ヒトの性(さが)


     【 道 】

 ちはやふる 榊のひらきし 道をまた

  ひらくは人の ちからなりけり


       (明治天皇 御製)


人というのは無意識のうちに「欲」「他人目(ひとめ)」を

重んじるようになる

欲と言っても様々な形があるが、私の言う「欲」とは

ダジャレではなく「よく見せたい」というもので、他人の目を

意識し自分の基準でなく、他人の見る角度を過剰に意識する

そういうような状態のことである


その顕著なものが「インスタグラム」というもののような気がする

一億総ユーチューバーになろうかという時代

インスタ映えなどというものも自分が感動して発信しているようには

思えない単なる「気を引く」ためだけのパフォーマンスだろうと

無学な爺は感じています(笑)


写真家も画家も音楽家も自身が感じた「何か」を具現化するから

観る者、聴く者に「何か」を感じさせ、感動を生むのだろうと思う

そこに「自らの心を動かす熱(energy)」が存在しないと、他者の

心は動かせないと思っています


半世紀前、フォトグラファーになろうとして挫折した爺が漸く気づいたこと

簡単なようで難解で、単純明快な基本的思考

自分が感動しないで他人は感動などしない

今だから言えることであって、当時の私は「人が嫌い」で他人を撮るのが

大の苦手、レンズの向こうでよく見せようと微笑む顔に嫌悪すら感じていました

花を観ても「心が動かず」、空を見ても「むなしい」だけでした

そんな無感動、無関心な人間が他人に何かを発信することなど

できるわけがなく、二十歳を前にその世界から逃げ出しました


自身が不必要な欲・雑念を振り払い何かを問いかけ、発信する

口で言うのは簡単ですが、当時は暗い海の底にいるようでした(笑)


そんな時に「本を読む」ことに関心が湧いていたら、もう少し別な人生が

あったかも・・・・なんて後悔しております


俗にいう「四十の手習い」で本を読み始め、知らないということは

恥ずかしいことだが、無知は努力で変えられる事を知りました

学校(小中高)の教科書以外、文字を読むことなど少なかった自分が

今の私を観たら、どう思うのだろう(笑)


「そんなこと知ったからと言って何になる?」

友人知人の多くはそう嘲笑していますが・・・・

知ること(知識)は己の心を豊かにするような気がして


私の脳が記憶できる数量が限られているなら、自分の国の

歴史や矛盾を一つでも多く記憶して死にたい・・・


だからと言って聖人君子にもなれないし、善良な人間に

なるわけでもないですし、自分の過去が帳消しになることも

ありません


自分の人生の断捨離は結構面倒ですが、知識の断捨離は

可能かもしれません


こういう時代だからこそ、こういう時節だからこそ、こういう環境だからこそ

何かを残せるかもしれません

意識の問題



「スポンサーが降りたとしても、そこのバックアップは水泳連盟が

しなきゃいけないと思うんです」

「本当に水泳連盟さんが言うように、法を犯したわけじゃないから。

それで水泳選手としての息の根止めたら、なんの意味もなくて」

「不倫したからダメですよねの考えだと、これからこういうことが起こると、

すべてのものが何もできなくなる」 

「何かひっかかって。スポーツマンは遊んじゃいけないのかっていうか。

そんなに鍛えていれば遊びたいだろうって」

(カンニング竹山氏の発言)


他人の不倫問題に口を出すのも野暮な話ですが・・・

カンニング竹山という芸人の説にも一理ある


ただ・・・・水泳連盟という組織が自力で運営しているのではないことを

彼は知っているのだろうか?

日本水泳連盟という組織はスポンサー企業がいて運営されている

公益財団法人なのである

連盟オフィシャルスポンサーとして「東京海上日動」

水泳日本代表のオフィシャルスポンサー「味の素」「ANA」「東京海上日動」

「バイトル」「東京海上日動あんしん生命」「nippunn」が支援している

競泳日本代表のオフィシャルスポンサーは「荏原製作所」「東進予備校」

「タキロンシーアイ」「パラマウントベッド」「P&G」である


さて、支援するスポンサーには企業イメージというものがあり、各社が

竹山氏の言うような寛大な気持ちで支援を続けて、株主の同意を

得られるかどうかの問題があり、簡単に「そうですね」とはいかない

企業経営者は何よりも株主の顔色や反応を極度に恐れる傾向にある


瀬戸大也選手の問題は連盟だけでなく支援企業の問題でもあるのだ

彼が一般人なら支障の生じる第三者は当事者に限られる


しかし、企業の支援協力や金銭援助を受けていたりすると、問題は別物になる

それを失うことを承知でなかったなら「大きな勘違い」「自業自得」と

考える人は多いのではないか・・・


芸能界やスポーツ界の問題は「倫理観」「企業イメージ」「金銭問題」

が大きな比重を占めてしまうのは間違いないのであって

そこの意識がマヒしているから、不祥事が後を絶たないのではないか


スポンサードの意識を放送媒体にかかわる人間は常に肝に銘じて

おくべきであり、どうして自分たちが一般人とは桁違いの報酬を

享受できているのかを再認識すべきかもしれない


と言っても、自分の芸で稼いでいると思っている芸人が多いのだろうから

馬の耳に念仏かもしれませんけどね・・・・

カンニング竹山氏の発言を深読みすれば、自分の過去を正当化したい

そういうようにも読み取れますが・・・・


これは倫理観の問題であって、企業イメージ=倫理観・品位を失念していて

芸能ムラをはじめ日本の「ムラ社会」の意識の問題だと私は感じています

明るい話題を渇望


シトシトと秋雨のような昨日の雨

台風の定番の暴風雨ではなく間断なく落ちてくる大粒の雨

避難勧告が出ている地域の方には申し訳ないですが

気分までジメジメしてきました


一昨日の仕事では、降り続く雨に打たれて体は冷え切ってしまい

昨日の朝起きたら室温16度、さらに自分自身は熱っぽい(泣)

この秋初めてエアコン暖房のお世話に・・・(設定温度23度ですが)


明るい話題のない長屋の爺の実生活

ネットも嫌な活字ばかり目に飛び込んでくるし・・・


プロ野球もジャイアンツの独走で幕を閉じそうですね

わがスワローズは50年前を彷彿とさせる残念な成績で

最下位を独走中・・・

考えてみれば私がスワローズを応援するようになった時代

首位と18ゲーム差なんて普通で、昭和40年でしたか

首位巨人と45、5ゲーム差というぶっちぎりの最下位でしたから

何処かのファンのように勝った負けたで騒ぐようならヤクルトファンは

続けられないのですよ (大笑)


私が国鉄スワローズの応援を始めたころ、金田正一投手が

300勝を達成したころで・・・

そのすぐ後に監督と揉めて巨人に移籍してしまいましたが

野村監督の時代から応援を始めた人にとっては信じられない

事ばかり起こっていた時代でしたね

負けるのは当たり前で、勝った時に喜びを爆発させる

これがスワローズファンの伝統なんです


9歳からスワローズ一筋で野球応援して50数年・・・・

いまのファンは「こらえ性」が無いと率直に思います

監督も選手も努力しているんですから温かい目で見てあげたい

それが私の本音です

止まない雨はなく、明けない夜はない 我慢辛抱が大事


私の野球ファンとしての心得は、勝ち負けを応援するのではなく

選手のプレーを応援することこそファンのあるべき姿だと・・・

どう考えるかであって、いろんな考え方がありますから(笑)



ネットニュースで見つけたちょっとだけ明るい話題

根室でサンマが大漁だったという

日本人にとってサンマは欠かせない魚ですから

私が小学生のころ近所の魚屋では、笊に盛られたサンマ(7~8匹)

が「5円~10円」だった記憶があります

北海道はニシンの時代から、秋刀魚の時代になっていましたから

七輪でどこの家でもサンマを焼くため煙がボーボーと・・・

今なら消防車が駆けつけるかもしれない状況でした(笑)

庶民の夕食の定番でしたねぇ~


やっぱり、サンマは目黒にかぎる

観点の違い


また雨が降り続くようだ

為政者に徳がないと異常現象が頻発する

この先、日本は異常なことが頻発するのだろう


さて、多くの国民を楽しませてくれる「球技」

一部の球技を除いて、球技の多くは【点取りゲーム】である


最近の球技の責任者(監督・コーチ)は常に守備に言及する

とくに野球・サッカーなどは、点を取られたことに神経を尖らせ

反省の弁としている

はたしてそれって正解なのだろうか?


私は50年以上プロ野球球団の応援・支持者である 

(が、熱狂的ファンではない)


野球は点取りゲームである

2点取られても、3点取れば勝つゲームなのだ


極端な話、投手がポンポンヒットを打たれても、野手が

エラーしても、相手チームより1点でも多くとれば勝ちなのであり

逆に投手がヒットを一本も打たれなくて、野手もエラーをせず

ゼロ点に抑えても、自軍が1点も取れなければ勝つことはできない


それが野球というスポーツの基本である


点取りゲームの主役は投手ではなく野手であることを失念している

そう思える野球の監督・コーチが多くなってしまった


守り勝つ野球なんて、詭弁だと思っている

たしかに失点は少ないに越したことはない

しかし点を取ってその点数により勝ち負けを判定するゲームでは

いかに多くの点を取るかだと私は思っている


俗に 1対0の試合は通にはたまらない試合だが、多くの観客は

退屈な試合である

ホームランが飛び交う試合は高いチケットを買ったファンにとって

最高のゲームに感じる

多くの野球観戦者は三振する姿を観るために、足を運んでいるわけではない

その自覚のない選手たちが「見逃し三振」をする


私はバットを手に打席に入り、「見逃し三振」する選手が大嫌いだ

思い切り振って三振して来いと、常に思っている

振らないバットからヒットもホームランも生まれない


世界一優秀なゴールキーパーがいて、鉄壁のバックスが揃っていても

チームが点を取らなければ勝ち点3は永久に手にできない

これがサッカーの宿命なのである

ゴール前で「バックパス」する選手が嫌いだ

たとえそれも戦法と擁護しても・・・・

打たないシュートから得点は生まれない


日本人ならではの「守り勝つという意識」

なぜか私は「専守防衛」を連想してしまう

守ることに執着すれば、後悔だけが残り遺族だけを増やし

振らないバット、打たないシュートは失点の多さだけが残る

そんな考え方を改めなければ本当の「ハッピー」「笑顔」は

生まれない気がします・・・・



貧困


最近よく見かけるネットのフレーズ

7人に1人の子どもが貧困状態にあり、母と子の世帯では

半数以上(50.8%)が貧困にあえいでいる



飽食の時代を経て 国民全部が中流意識なったころ

メジャーだった貧乏世帯がマイナーになった


私が子供の時代、10人のうち9人が貧困だったが

貧困に身を置くと、貧困という意識すら湧かないのである

擦り切れたズボンの膝を当て布で補修し、穴の開いた毛糸の靴下を

糸で補修して履いていた・・・・そんな時代


エンゲル係数が高い世帯ほど貧困家庭だと記憶している

人間生きていくために「食べる」、食べることが即ち生きることでもある


少ない収入のなか、食費を削って生活することが常態化した現代を顧みて

現代とは言い換えれば「本末転倒」「錯覚と幻想」というべき異常な

時代のような気がしている


高価な衣服を身に纏うために食べることを我慢する若者世代

なぜ生きるのか?

なぜ働くのか?

その答えが「ショッピング」や「旅行」、「学費」と聞くと絶望を感じる

流行の衣服やアイテムを買わなくても死ぬことはない

豪華な旅館に宿泊したり、観光地・温泉に行かなくとも死にはしない


最高学府を出たから豊かな生活が保障されるわけではない

国立大学を出て派遣社員生活を送る人間も実際にいる

有名私立大を出て産廃処理のトラックを運転している人もいる



札幌市営地下鉄東豊線の美園駅構内のエスカレーターで、

20歳代女性のスカート内にスマートフォンを差し入れ、撮影し

逮捕された男(道庁職員)の供述に驚いた

「ワクワク感がほしかった」

経済的貧困も社会問題だが、発想・意識の貧困は救いようのない

悲しい社会問題である

わくわく感を盗撮で得ようとした愚か者、どんな教育を受けても

何処に就職しようとも、意識の貧困は誰にも救えない

注目を浴びようと愚かな行為をユーチューブで配信するバカと同じ


一億皆ユーチューバー、インスタ発信の時代はそんなに長続きは

しないような気がしている

全ては意識の高さ、発想の豊かさが問われる時代になるだろう

バケツ一杯いくらの人間になるか、一粒の宝石になるかは

考え方であり、意識であると私は思っている

無力と過信


芸能人の自殺問題に言及した官房長官

「いろいろ悩みがある方が孤立することがないように、

温かく寄り添いながら見守るような社会を構築したい。

政府としても相談窓口の設置などしっかり取り組んでいきたい」


私の経験で言うなら、人が自死するのを止めることができるなど

世迷言としか思えない

一億人の人間がいれば一億通りの「生い立ち」と人生がある

軽い気持ちで死を選択しようとすることはない

助言があろうと寄り添いがあろうと・・・


他人には踏み込めない「精神の領域」の問題だと私は思う

金や仕事、家庭など傍目で充実しているように見えたとしても

心の闇は誰にも知ることはできないのではないか・・・


死に損なった人間はいくらでもいる

死ねなかったのではなく、「死ななかった」というべきだろう

「運悪く死ねなかった」と言うより「運悪く死ななかった」

自死を選択する人間にとって、正確に言うとそう言う事になる

だから自殺しようとする人間は何度でもチャレンジする

「運良く死ぬ」ために・・・


私は他人の死は寿命という認識で理解している

病気だろうと、事故だろうと、老衰だろうと、自死だろうと・・・


鬱症状が出ると悪魔が誘ってくる

「もう、楽になろうぜ・・・」

その感覚は経験者しか知ることはできないかもしれない

甘美でピリピリするような不思議な感覚・・・なのである


人間のチカラには限界がある

本人に思いとどまる意思がなければ、他人の言動・助力

など無力だろうと思う

それでも自死を防げるというなら、それは「人間の過信」だと

私は感じている


プロフィール

長屋の爺

Author:長屋の爺
代々 曹洞宗の信徒
何度も死の淵を覗いた爺の
言いたい放題の偏屈ブログ
猫との気まま生活を謳歌する

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