縄文の民と月  


私たちは 太陽=神 という概念に違和感を感じることはありません

何処の国の文明でも 太陽神 が信仰の中心にあったと思っているし、

特に不思議に思わないのが現実かもしれません


日本の神も太陽神・アマテラスが中心に存在するとされていて

私はこの説に言いようのない違和感を感じています

太陽が神であっても別段問題などないことは承知していますが

本当に日本の神の中心が「太陽」だったのでしょうか?


太陽は恵みを与えてくれる、これに異論はありません

農耕民族にとっては何にも代えがたい「チカラ」を発揮する太陽ですが

狩猟民族にとって、はたして太陽が絶対無二だったのでしょうか?


人の生死にかかわる事象は、むしろ【月】の影響が大きいと感じるのは

私の単なる思い込みかもしれませんが・・・



質問です・・・今まで日(太陽)と月、あなたはどちらを多く見ましたか?


太陽を肉眼で見たことはほとんど無い私ですが・・・

月と星は住む場所が異なっても、ことあるごとに観て過ごしてきました


漠然とですが、縄文の民も太陽ではなく、月や星を見て暮らしていたのでは

そんなことを考えています


科学と言う「アイテム」が無かった時代、潮の満ち引きと月の関係を

把握していたかもしれません


ちなみにアイヌ語では・・・

【太陽】は ペケレチュプ

【月】は チュプ と言います

【星】は ノチウ と言います


クンネ チュプ カムイ  

クンネ は、「黒い」とか「夜」という意味で、チュプ は「月」

カムイは「神」ですから、「月は夜の神様」という意味でしょうか?


月を表現する言葉は、「チュプ」「チュプカムイ」「クンネチュプカムイ」などあり、アイヌの民が

「月」を特別なものとして捉えていた気がします


アイヌの伝承をすべて知っているわけではありませんが、よく聞く神様には

【フクロウの神】、【オオカミの神】、【海の神】などがありますが、太陽の神の

話は知りません(私が知らないだけで、あるかもしれませんが)


狩猟民族にとって、太陽神が重要な位置を占めていたとは到底思えないのです

恵みの神は農耕民族にとっては最高の神かもしれませんが、狩猟民族には

雨の日も風の日も「すべて神のなせる事」として、受け止めていたのではないでしょうか・・・


狩猟民族にとって、「絶対無二の神」は成立しません

あらゆるものに【神】が宿り、神の力によって生かされているとする

自然崇拝を基本とする民にとって、ずべての頂点に君臨する神など

受け入れないだろうと私は思っています


縄文の民は、月を見て何を思ったのか・・・・

月と縄文の民は「強い絆」で結ばれているかもしれません。


スポンサーサイト

Posted on 2017/05/23 Tue. 21:39 [edit]

category: 歴史

tb: 0   cm: 0

ポンコツ  


仕事中に首と背中を痛めてしまい、ダウン寸前の長屋の爺です

毎年のことながら4月から3ヶ月くらいは多忙ですが、歳を重ねるたびに

身体の不具合が顕著になってきています

仲間内では「ポンコツ」として認知されていますから(笑)


「歳なんだから、そこそこにしとけば」

そういう言葉が大嫌いで、歳が半分の若者と張り合って仕事をし

若者の仕事まで「奪って」体をイジメる、大ばか者でもあります

「できない」 「無理」 という言葉が死ぬほど嫌い・・・・

金にならぬ仕事が三度の飯より好き(笑)


ゴールデンウィークに旅行に出かけたから、痛い・痒いとは言えず

顔で笑って、内心では泣いています

夏に神宮球場に出かけることを励みに、歯を食いしばって働こうと・・・



【意】 い 

 と  が合わさった文字

音によってその心を、「おしはかる」ことから、元の意味は【おしはかる】

ここで言う「音」とは、神の「音ない(音を立てること)」

「おしはかる」とは、神の意思をおしはかることです


私は「おとない」と聞くと、【訪い】という言葉を連想します

【訪】 ほう

訪とは、各地の神様に謀(はか)ることを言います

神に謀り「神意」を問うという意味です

そこから各地を「たずねる・おとずれる」の意味となり

神の真意を聞きに訪れること、音なう=訪うになったと思われます


私たちの周りの「漢字」は神さまに由来するものが多くあります

それは神さまが非常に大事なものだったから、必要だったからだと

私は考えています


神さまに向き合う「形」「意識」を広い範囲の人々に伝えるために

文字が創られたのだと思っています


*ただし、この神とは「ヒトの形」をした「現代の神」ではなく

全ての事物に存在する神、アニミズムの神を指します

後に【八百万の神(やおよろずのかみ)】と称した神でしょうか


八百万の神に対する信仰が、現代の日本人の「精神性」に

大きく関わっているのではないかと私は感じています。



Posted on 2017/05/20 Sat. 22:55 [edit]

category: 文字・漢字

tb: 0   cm: 0

犬と名君の話  


生類憐みの令

徳川5代将軍 綱吉によって定められたのはご存じですよね

ところが意外とその中身を知らないのが普通かもしれません

現代語訳で書くと・・・こういう事なのです


一、捨て子があればすぐさま届け出ようとせず、その場所の者がいたわり、

みずから養うか、またはのぞむ者がいればその養子とせよ。

よいか、届け出なくてかまわない。

一、鳥類・畜類で、人が傷つけたと思われるものは今までのように届け出よ。

共食いやみずから傷つけたと思われるものは届け出なくてよい。

それらを養育し、持ち主があればかえすようにせよ。

一、飼い主がいない犬に日ごろ食べ物をあたえないようにしているという。

それは要するに食べ物をあたえれば、その人の飼い犬のようになって面倒な

ことがおこると考え、いたわらないでいるらしいが、けしからん。

これからはそのようなことがないように心得よ。

一、飼い犬が死ぬと、飼い主は上司へ届けでているという。

その死に異常がなければ、これからはそのような届け出は無用である。

一、犬ばかりにかぎらず、人々はすべて生類へ慈悲の心からでるあわれみを

ほどこすことが肝要なのである。

 以上


江戸には犬が非常に多かったと言われています

しかし、私たちが考えるような状況ではなかったかもしれません

なぜ江戸に犬がいたのか?

それは武士(大名・旗本)が頻繁に鷹狩を行っていたことに由来します

鷹狩(たかがり)の時、獲物を追い出す役目を犬が担っていました

漁師に犬が不可欠なのと同じ理屈ですね・・・

だから、江戸初期には江戸市民ではなく武士が犬を飼っていた

さらに江戸の街中に広大な屋敷(上屋敷・中屋敷・下屋敷)を構えた

大名家の番犬の役目を担っていただろうと思います


そのうちに鷹狩は将軍家や一部有力大名の「趣味」になり、一般の武士は

鷹狩などやらなく(できなく)なります

広大な屋敷の中で番犬として生活しているうちは幸せだった犬も

屋敷の外へ出て行くようになり、あちこちで子犬が増え野良犬化したり

屋敷で生まれた子犬を江戸市中に捨てたりし、その一部が

商家や農家で変われるようになったと考えられます


なぜ【生類憐みの令】が出されたのか?

犬を大事にするために法律(令)を出すわけがありません

綱吉が将軍に就いたころは、江戸市中では刃傷沙汰が絶えなかった

のだろうと思います

江戸草創期のほんの少し前はどんな時代だったか考えればわかります

関ケ原や大阪冬の陣、夏の陣など、武士が刀や槍で 【人を殺すこと】 が

名誉であったのです

そんな気風が幅を利かせていた時代、江戸は殺伐とした街だった気がします

些細なことから刀を抜いて殺し合う・・・それが江戸の町だった

江戸に仕事に来ている職人や人夫なども、些細なことで殴り合いの喧嘩や

殺生が日常茶飯事だったかもしれません

綱吉は言ってみれば 【戦争を知らない世代】 だったから、野蛮な風習を

無くしたかったのかもしれません

日本の治安の良さの原点はもしかすると・・・綱吉の生類憐みの令だったかも

とは言い過ぎでしょうが、人を殺すことが【悪】となったのは、間違いなく

徳川5代将軍 綱吉の時代から後の事だと私は考えています

誤解されてしまった「生類憐みの令」は歴史の常識からすると

当然の事かもしれません


綱吉の後の権力を握った人物が、先代の評判を落として

自分の政策や治世をよく見せるのは常套手段ですから・・・


私はそういう意味からも、田沼意次という政治家を評価しています

後世の人間が「意次」を悪人と評価すればするほど、有能な人物だったと

思えてくるのです

結果を見れば、松平定信の政治能力は田沼の足元にも及びません

私はこの時代は門外漢なので、この辺で止めておきますが(笑)



日本の古代の歴史でもこの法則は当てはまります

酷い事を書き残された治世者(天皇)は名君だった可能性が高く

ほめちぎられている天皇は「愚帝」だったかもしれません


政権が変わって前政権を褒め称えるのは少し異常であり

書きのこすにはそれ相応の「理由」があるはずなのです


先帝より「資質・人格」が劣る者ほど、先帝を貶める「記述」を

残したのかもしれません

Posted on 2017/05/18 Thu. 22:23 [edit]

category: 未分類

tb: 0   cm: 0

ゴマ豆腐、雨の九頭竜湖  


帰路では高速に乗らずに、一路「九頭竜湖」へ向かう・・・

あいにくの雨だったが、これもまた「旅」の思い出になる


途中、「永平寺ごま豆腐」を買い求めに寄り道・・

ごまをする



混ぜる



混ぜる2



まぜる3



型に流す




DSC_0083-22.jpg



切り分ける



完成


大本山永平寺御用達  操業明治弐拾壱年

【 團助 だんすけ 】 さんの店頭展示より







DSC_0002_01-22.jpg





DSC_0018_01-2.jpg




DSC_0015_01-22.jpg




DSC_0017_01-22.jpg




DSC_0007_01-22.jpg




DSC_0011_01-22.jpg




DSC_0016_01-2.jpg






DSC_0005_01-22.jpg




DSC_0004_01-22.jpg




DSC_0006_01-22.jpg




DSC_0013_01-22.jpg


雨の「九頭竜湖」、どう見えますか?

大きさをお伝えできないのが残念ですが、雨の影響ではないでしょうが

ちょっぴり神秘的な風情でした




子供が小さい頃は「若狭の海」へ海水浴に行ったり

「小松」「片山津」までゴルフに行ったりと、何度もこの地方には

足を運んでいても、永平寺には「縁」が無く先祖も呆れていた事

だと思います

今回初めて大本山永平寺を訪れて、果たすべき「ひとつ」を成した

気持ちでいます

「曹洞宗の信徒」というには憚られる長屋の爺ですが、先祖供養の

足しになればという思いで、今回の永平寺にお参りを無事終了できました


私の座右の銘は、「玉磨かざれば器を成さず 人学ばざれば道を知らず」

でした・・・

この言葉の「もと」が曹洞宗開祖・道元禅師の言葉だったことを

今回再確認いたしました


玉は琢磨によりて器となる。

人は練磨によりて仁となる。

(中略)

必ずみがくべし

すべからく練るべし。




「究極の晴れオトコ」と自負していた長屋の爺でしたが

今年に入って20年ぶりに「雨のゴルフ」に直面し

今回の旅行も「雨」という結果に、「晴れオトコ」返上しようかと・・・

雨は嫌いじゃないけど、大事な一眼レフカメラが濡れるのは嫌!

雨用にカメラ購入など無駄な話で、何とも悩ましい旅の総括でした(笑)




Posted on 2017/05/15 Mon. 22:32 [edit]

category: 旅の記録

tb: 0   cm: 2

曹洞宗 大本山 永平寺  


舞鶴を後にしたころから、あいにくの雨・・・

予報では小雨のはずが、土砂降りと言う現実に

ケセラセラの状態でドライブ開始(笑)

普段の行いの悪さが如実に表れる結果となったのは

世間で言うところの「因果応報」と反省する長屋の爺でした


土砂降りの雨なら観光客もさぞかし少なかろうと・・・

思っていたのは自分だけだった…

信仰心と、連休の前には、雨など何のチカラも無い事を知る


幸いにも永平寺の隣の土産物店の駐車場が空いていて

土砂降りでも濡れずに済んだのも、仏神の御加護か・・・

「そんなわけあるかい」

と突っ込まれて、意気消沈する長屋の爺でしたw


* 土砂降りのため、濡らすのが嫌でカメラを持たずに

参拝しました 今回の画像はスマホの画像です






DSC_0075-22.jpg


 【仏殿】 ご本尊 釈迦牟尼仏が祀られている






DSC_0073-22.jpg






DSC_0076-22.jpg






DSC_0072-22.jpg


 【法堂(はっとう)】 説法や各種法要が行われる






DSC_0071-22.jpg



永平寺は山の斜面に建てられているため、雨に煙る景観も趣がある






DSC_0068-22.jpg


 【承陽門 (じょうようもん)】 







DSC_0079-22.jpg







DSC_0077-22.jpg


 【報恩塔(納経塔)】  写経を納める塔








DSC_0067-22.jpg





 【傘松閣 (さんしょうかく)】 絵天井の大広間



著名な画家144名により描かれた230枚の花鳥の色彩画

見上げていると首が痛くなりました(笑)






DSC_0078-22.jpg






かつてこの日本でも宗教僧(僧兵)が刀や薙刀、鉄砲を手に争いを起こした

過去もある

釈迦もキリストも「人を殺せ」と言い残した訳が無い

後世の人間が捻じ曲げた「人殺し宗教」はもはや宗教とは呼ばないと

私は思っています




Posted on 2017/05/12 Fri. 22:05 [edit]

category: 旅の記録

tb: 0   cm: 6

舞鶴港  


半袖でも汗が出るような好天に恵まれた今回の旅

永平寺にお参りして、混雑や渋滞、天気模様を考えて

舞鶴に行こうか? くらいの計画だったが・・・

天気は5日は晴天、6日は雨という予報だったので

舞鶴の雨は御免蒙りたいということで、舞鶴~永平寺の

行程に変更、雨の永平寺なら観光客も少ないのではないか

そんな淡い期待を抱きながらの旅になった(笑)




DSC_0093-2.jpg



DSC_0065-3.jpg






DSC_0050-2.jpg

151 護衛艦 【あさぎり】



DSC_0053-2.jpg

177 イージス護衛艦 【あたご】


DSC_0054-3.jpg





DSC_0060-2.jpg

181 護衛艦 【ひゅうが】


DSC_0059-2.jpg


DSC_0047-3.jpg


DSC_0040-3.jpg







DSC_0078-2.jpg



130 護衛艦 【まつゆき】
232 護衛艦 【せんだい】


DSC_0084-2.jpg






DSC_0076-2.jpg

175 イージス護衛艦 【みょうこう】



DSC_0035-2.jpg



DSC_0079-2.jpg




DSC_0075-2.jpg


118 護衛艦 【ふゆづき】
   ( 隣に見えるのが 175 みょうこう )



DSC_0028-2.jpg






DSC_0056-2.jpg




DSC_0058-2.jpg


425 補給艦 【ましゅう】






DSC_0094-2.jpg

828 ミサイル艇 【うみたか】



DSC_0093-2.jpg


DSC_0068-2.jpg


824 ミサイル艇 【はやぶさ】


DSC_0066-2.jpg



DSC_0065-2.jpg



DSC_0065-4.jpg



今回は北朝鮮問題できな臭い状況での舞鶴訪問だったが

どう考えるかは個人の問題ではあるが、このような多くの自衛艦が

停泊しているという事に、「天気晴朗なれど波高し」を実感した

有事であれば一隻たりとも拝むことはできなかっただろうし

考えようによっては、「何事も無くて良かった」と思うべきなのだろう


自衛隊を認めようと認めまいと・・・・自衛隊を否定する者も、容認する者も

区別なく国民を守ることを自衛官たちは義務付けられているのである

Posted on 2017/05/10 Wed. 19:44 [edit]

category: 旅の記録

tb: 0   cm: 0

舞鶴城  



初めて訪れた舞鶴は観光客は多かったが、穏やかで

魚と酒の肴がとても美味しい街でした


人生で初めて口にした酒の肴


フグの白子


【ふぐの白子】




食べ過ぎると「痛風」になりますよ、と言われたが

お代わりをして食べてしまいました

「お造り」や「焼きもの」、「「煮つけ」「揚げ物」など多彩で

はずれの無い魚介類が歓待してくれました

夏になると「岩ガキ」が食べられるそうな…

この店で出される「トリ貝」は肉厚で手のひらサイズとか・・・

また行きたい店で、もっと近くにあれば通いたいと思いました


マグロ以外は地元の港で上がったものばかりで

何を食べても新鮮な魚ばかり、店主のこだわりが感じられ

思いっきり食べて呑んで・・・一万円弱とはgoodな価格

いや~~~堪能しました

(店名や場所は、内緒で教えますので・・・どうぞ)



DSC_0104-22.jpg

【 田辺城(たなべじょう) 】

別名 舞鶴城(ぶかくじょう)


DSC_0108-22.jpg


【 黒鉄門 】



DSC_0105-22.jpg


この城は細川藤孝(細川幽斎)によって築城されたという

幽斎の子・忠興の妻が明智光秀の娘・玉(ガラシャ)

細川氏は三河・細川(愛知県岡崎市細川町)の出身とされる


DSC_0107-22.jpg



DSC_0109-22.jpg




Posted on 2017/05/09 Tue. 23:32 [edit]

category: 旅の記録

tb: 0   cm: 2

岸壁の母と舞鶴引揚記念館   


この世で一番貴いのは間違いなく 母 という存在でしょうね

我々男が逆立ちしても勝負にはなりません

自分の子どもだなどと思ったり考えていても、男には「実感」と「痛み」が

伴わない「幻想に近い感情」で子供という存在を意識している気がします


DSC_0007-2.jpg


昭和29年に発表された「岸壁の母」は史実をもとに

創作されたという

私たち年代なら歌詞を観なくても口ずさめる名曲ですね

その歌碑と並んで建てられているのが、この歌碑です


DSC_0006-2.jpg


シベリア抑留者であった故吉田正氏が作曲した曲に

同じく抑留者だった「増田幸治氏」が歌詞をつけた曲で

原曲題名は「昨日も今日も」・・・・・


* 引揚記念館の中は写真を撮ることができず写真はありませんが

靖國の遊就館とは違った貴重な展示がありました近くへ行ったなら

訪ねてみてください


幸いにも私の父はシベリアに抑留されずに21年に復員した

戦後まもなくゲリラの機銃掃射に遭い、自分の足で歩くことができず、

部下に背負われて「骨と皮の状態」での復員だったという

父は戦死した部下への思いから、生涯を閉じるまで【軍事恩給】は

一度も受け取っていなかった

シナの最前線の過酷さは一人の人間を無口にし、多くの仲間と

沢山の若き部下たちの命を奪ったのである

私は父の戦後をこの目で観て、南京大虐殺など絵空事だと確信している

そんな非情なことができるならもっと日本は戦えたはずであり

日本人の優しさ、お人好しが多くの命を失う原因だったとも

感じています

農村の子供がいる村で食料の調達(物々交換)をしていて

村民に紛れたゲリラに背後から撃たれ、それでも子供に銃を

向けなかったために、命を落とした兵隊も居たそうです・・・

南京大虐殺ができるくらいなら、多くの父親が生きて故郷に

戻ることができたはずである

南方戦線での敵艦特攻が表の英霊とするなら、満州の地で敵と

思っていなかったソ連に裏切られ、極寒のシベリアで命を落とした

多くの御霊は気づかれない陰の英霊たちだと思っています


たしかに戦争などと言う愚かなことは、しないに越したことは無いが

争いを放棄した日本人がどういう結末を迎えたのか・・・


殺すくらいなら殺されたほうがまし・・・・という若者に問いたい

本当に争わないで平和な生活が来ると思いますか?

無抵抗な人間がどんな目に遭ったか知っていますか?

争そわないと決めるのは自分ですが、相手が同じ気持ちだという

保証はありません


北朝鮮の金正雲に日本人は戦いませんと言って、拉致された日本人を返し

攻撃を止めてくれますか?


日本国憲法9条とは、日本人が勝手に「平和国家」の宣言をしているだけで

戦争回避に何の効果も力も無い事を、日本人は気づくべきです


9条があるから平和だったという人は、家の玄関に【詐欺お断り】とか

【強盗お断り】、【我が家は争い事はいたしません】と書いてはどうか?

それで詐欺の電話がかかってこないなら、自宅に強盗が入ってこないなら

近所の異常者が刃物を手に襲ってこないなら・・・私もそうしますけどね





DSC_0014-2.jpg




DSC_0002-2.jpg



DSC_0013-2.jpg



DSC_0009-2.jpg



DSC_0011-2.jpg




DSC_0005-2.jpg




DSC_0012-2.jpg



DSC_0017-2.jpg



DSC_0016-2.jpg

Posted on 2017/05/08 Mon. 11:14 [edit]

category: 旅の記録

tb: 0   cm: 4

明日からちょっと休みます  


突然 7日(日曜)に仕事が舞い込んできた

予定は未定で決定ではないとは言いながら・・・何ともw

そんなことはお構いなしに明日から旅行に行きます(笑)


友人の旅行に便乗して、5~6日と北陸方面に行ってきます

半分は趣味で、半分は真面目な理由で・・・

我が家は曹洞宗なのですが、未だに永平寺にお参りしたことが無く

今回友人に同行してお参りしてきます (ともに曹洞宗なので)

よって明日から更新はできないと思います(酔っぱらってしまうからですがw)


話のネタがあれば旅行のあれこれを書けるかもしれませんが・・・

タブレットは持って行こうと思いますので、皆様のブログ閲覧は

できると思っています (あくまでも予定ですが)

Posted on 2017/05/04 Thu. 21:15 [edit]

category: 私の思い

tb: 0   cm: 2

鶏が先か卵が先か  


 カミ という文字を見れば誰でも「神さま」を連想する

しかし日本では「神」という文字が伝わる前から「カミ」は居たのである

「カミ」という読み方も日本式であり、日本に入って来た時は「シン・ジン」

というのが正式な音なのである

なぜ「シン(神)」という文字が【カミ】という読み方になったのか?

おそらくは先住民の「カミ」のことを、【カムイ】と呼んでいたことによる

ものだろうと私は考えている

カムイ (kaーmuーi)という音はu-iと子音が連続するので(u)を省略して

KAMIになったのが定着し、その後大陸から意味の同じ「シン(神)」という

文字が伝わりその読みに「カミ」を当てたのだと思っている
 



元の文字は【申シン】

申という一文字で「カミ」を表す

自然の事物や自然のチカラを「カミ」として崇拝したことに由来する

その後、申すなどの意味にも用いられるようになったので、祭卓(さいたく)

を表す【示】を加えて【神】のことになったという


基本的にわが国には音が先に存在していた

その後大陸から「文字(漢字)」が伝わり、本来あった言葉に近い意味の

漢字をあてはめて使用するようになったのだろうと思う

日本に「難読文字」が多く存在するのは、このことが原因だろうと私は

考えている

「かな」で考える習慣にすると、別の世界が見えてくるかもしれない


人は日常的に「間違い」を犯す

その間違いを「間違い」として正さないことが奇妙な結果を招くことがある

新しい だれでも「あたらしい」と読むこの漢字・・・

じつは【あらたしい】と読むのが正しい読み方なのであるが、この言葉を

間違って「あたらしい」と読んだモノが定着し、正(ただ)さなかった故に

いつの間にか「あたらしい」と読むのが正しくなってしまった

例えば、「新(あら)たに購入」は、あ・ら・た・にと読むことでもわかります

あたらしい が正しければ、「あたらに購入」と読まなければ整合性が無い事になる

日本人はいつの時代も、「まあいいか」というグレーな処理をしてきたという見本かも

しれません

間違いは「間違い」であり、それ以上でもそれ以下でもありません

生活保護法に「日本国民に対し・・・」という条文があって、在日外国人に

支給するという間違いを犯しても、それを正さずに「まあいいじゃないか・・」

とうやむやにするところなど、日本人らしいという事かもしれません・・・


今では認知され正しい言葉とされているものに【一生懸命】という言葉がある

そもそもこの言葉は間違いから生まれて、自立してしまった言葉である


本来は【一所懸命(いっしょ・けんめい)】であり

親から受け継いだ「所領(しょりょう)」を命がけで守ると言う意味の言葉だった


ところが「所(しょ)」を「生(しょう)」と間違えて書くようになり、読みも

しょ→しょう に変わり、別の言葉として認知されてしまった代表例でもある


よく「本当はどちらが正しいのですか?」などという質問に対し

どちらも正しい言葉であり、正否を云々することはできない・・・

そんな答えを観ることができますが、私にすればビートたけしの

「赤信号 みんなで渡れば 恐くない」そのものの気がしています

みんなが当たり前のように使用しているから、もう間違いとは言えない

そんな馬鹿な話が日本では当然のようにゴロゴロしているのです


言葉は文化であると同時に民族の歴史であり遺産でもあると私は

常に感じています

文化だから変わるのは当たり前という学者先生には失望してしまいますが

日本語が理解できない日本人だらけになる日も、そんなに遠くない気がしています

変わることで開ける未来があり、失うものも多い

変わらないことで足踏みすることもあり、大事なものを見つけることも多い


幼稚園児から小中学生、高校生にいたるまで、英語教育にばかり

重点を置いていると・・・・

数十年後に、外国の日本語科の学生から、日本人に対し

「その日本語は正しくありません」

「あなたの日本語は間違っています」

そんな時代が来るような気がしています(笑)

Posted on 2017/05/03 Wed. 22:25 [edit]

category: 文字・漢字

tb: 0   cm: 0

プロフィール

最新記事

最新コメント

月別アーカイブ

カテゴリ

訪問者

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

ブロとも申請フォーム

QRコード


▲Page top