歴史の嘘と誤解  

常識のウソと創られた歴史

香水と言えばヨーロッパ、とりわけフランスが先進だという

どうしてフランスが香水先進国だったのか?

どうしてフランスがファッション先進国だったのか?

先進的な美的感覚があったからでもなく

それには理由(わけ)があるという・・・


フランスでは日本と違い「風呂」に入る習慣が無かったため

体臭を「ごまかす」ために必要であり、そのため香水の需要が増え

発展したとされる

日本の時代で言うと戦国時代~江戸時代にあたるのだが

その頃の江戸では銭湯(湯屋)が多くあり、清潔な町民も多かった

何より「便所」がきちんと整備され、糞尿は農民が肥料として買い集め

道端に人糞が転がっていることも少なかった(笑)

ところが、一説によると当時のフランスでは上水道・下水道事情が

悪く、飲み水が不足していたうえに、二階の窓から糞尿を捨てていたという

町中の通りの真ん中に排水路があり「酷い臭い」で充満していたという

パリのファッションや香水の発展は、汚物と匂いによる【副産物】だった?

必要は発明の母 とはよく言ったものである



柔道・剣道という名称は明治時代に【江戸時代を否定】する意図で

名付けられました

それまで 柔術(じゅうじゅつ)、剣術(けんじゅつ)だったものを、精神的道徳性

を強調するために「道」にすり替えられたのです

とにかく、明治新政府の江戸叩き・江戸否定は尋常ではなく

良い悪いなど関係なく 江戸=悪 という基本姿勢で貫かれてきたのです


女性の丁寧な「あいさつ」とされる【三つ指をつく】お辞儀などは顕著で

三つ指をついて辞儀をするのは、吉原の遊女が髪を結い簪(かんざし)で

飾り立てているため、頭を下げられないために簡略化した辞儀として

始めたものであり、正しい辞儀の作法などではない


ちなみに武家の妻女は座って襖(ふすま)を開けたりはせず

立ったまま胸の懐剣(かいけん)に手を添えて足で開けたとされる

いついかなる時も「危機管理」を徹底していたという事か・・・

奥様とよばれるくらいである、むやみに玄関口に出てきたり

客人に顔を見せることも少なかったようだ

襖に手を添えて開け閉めするのは町人の妻女の仕草なのである


江戸の町人とよく聞くが江戸には一握りの町人しかいなかった

そんなことは無いだろう、百万都市の半数以上は町人だろう?

ところが常識のウソは此処にもある

正式な江戸の町人と言うのは、町年寄~町名主の事を指す

町年寄は別名【町役人】とも呼ばれ、武家と町民の間に立って

江戸の行政を仕切っていた

町年寄は三家、「奈良屋」「樽屋」「喜多村家」だけである

町名主は江戸土着の豪族が任命された

町名主の中には今の金額にすると6000万くらいの役料をもらっていた

名主もいたというから大身旗本並みだったことになる

町名主は268名いたという

これらの270余名が正式な江戸町人ということになる

では 一般の民は「町人」でなければ何なのか?

それは・・・江戸の住人と言う事になるのではないか

町人でないわけだから「租税」いわゆる税金も払わなくてよかったのである

【町】と書いて、まち・ちょうと呼び分けているが、本来はきちんと決まりが

あったそうだ・・・・

武家地は*町とかいて「まち」と呼び、商人や・職人が暮らすところは

**町と書いて「ちょう」と呼んでいた

いつしかその区別がなくなって、江戸は「まち」やら「ちょう」が混在してしまった




江戸時代と日当(日給)が変わっていないのが【大工】らしい

一日は弁当代込みで「銀五匁四分(ごもんめよんぶ)」

現在の価値で2万円程度で今の時代、表向きには2万4千円

程度なので (ただし実際はその6割程度ともいうが)それほど

変わっていないことになる


北関東に被差別地域が多いというのだが・・・

この地方の差別(部落問題)の一因が江戸時代初期の北関東開拓

に関係しているかもしれない

キリシタンが西国(西日本)から追放され、徳川家康江戸開闢の後

利根川整備開墾に動員され、同じ場所に集められて今に至っている

その後、仏教徒たちから異端視されたことをきっかけに差別されてきた

ことも考えられる

粉屋のお嬢様も元キリシタン家系で、被差別家系とするなら、大きな

歴史の「あや」を感じてしまうのである


明治政府の江戸否定による「言葉替え」(言葉狩りと言ったほうが良いか?)

は私たちの江戸時代の常識を形成しているといえる

江戸時代の治世より明治新政府の治世の方が優れている

この基本理念を国民に植え付けようとし歴史を操作したのである

 藩(はん)という呼び方は新井白石が遺した【藩翰譜(はんかんふ)】が初出で

1703年以降なら間違いとは言えないが、一般的に口にされるようになるのは

明治維新以降なのである

* 幕府直轄領(御料)を「天領(てんりょう)」と言い換えた

* 大名領を藩(はん)と言い換えた

* 家臣・家来を「藩士」と言い換えた

* 学問所を「藩校」と言い換えた

* 大名は国主・領主が一般的だったが「藩主」と言い換えた

* 階級制度ではなかった士農工商という職種概念を

身分制度としてあった如く、姑息な工作までした


戦国時代・鎌倉時代・平安時代という呼び方も明治20年以降に

確立された歴史用語であり、それ以前にはそんな呼称は存在していなかった


江戸時代に書かれた古文書にそのような言葉が書いてあれば

明治以降に書かれた偽物である
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Posted on 2017/03/30 Thu. 23:59 [edit]

category: 歴史

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譲位の歴史  

日本の天皇の譲位の歴史 1 


日本で最初に譲位をした天皇と言われているのは

第35代 皇極天皇である

(しかし私は持統天皇以前の女性天皇は架空・捏造だと

考えているので、あくまでも通説・定説としてであるが・・・)



以降、第41代 持統天皇、43代 元明天皇、44代 元正天皇、46代 孝謙天皇

と続いていく・・・

歴史に明るい方なら、ここで気づかれたかもしれない

そう・・・この5人の天皇はすべて女性天皇であり

天皇の譲位の歴史は女帝の歴史から始まっているのである

譲位をした天皇はその後、【太上天皇(だいじょうてんのう)】と呼ばれ

後にその二文字から【上皇】と呼ばれることになるが、上皇の多くは

天皇と同等、あるいは天皇以上の実権を持っていたとも考えられる

権力の二重構造と言っても過言ではない

初期の女帝の譲位とその後の男性天皇の譲位とでは譲位の本質が

変わってくるのも興味深い

持統天皇から孝謙天皇までの譲位は持統天皇の血筋を繫ぐための苦肉の策で

あったが、皮肉にもその血脈は途絶えることになる

雌鶏歌えば 家滅ぶ を実践してしまった形になったのは何という皮肉だろう(笑)

天皇家の菩提寺・御寺には持統天皇の系譜は除外されて位牌がない事と関係あり?

明晰・鋭敏な親王達が数多いたにもかかわらず、我が子に天皇位を継がせようと

策略をはかり、それが叶わぬとなれば孫に継がせるために天孫降臨神話を考え、

男系で繋がれてきた天皇家に「女性天皇」という暗黒の歴史を創作し、自らも女帝となり、

譲位という不細工な制度を産み落としたのである


俗に言う天武系から天智系に戻された天皇家になると、49代 光仁天皇から

譲位の歴史が再開して行くことになる

その天皇の多くは、藤原氏の執拗なまでの圧力と嫌がらせによって、不本意ながら

譲位したのである


光仁天皇、淳和天皇、清和天皇、陽成天皇、宇多天皇、醍醐天皇、朱雀天皇

円融天皇、一条天皇・・・・・・さらに続いていく譲位の歴史を見る限り、民のために

真摯に神と向き合う姿など見えてこない


公卿・貴族たちの権力争いに翻弄され、とても祭祀王とは呼べない、仏に縋(すが)る

弱い天皇の姿がそこに存在した


神とは願い乞うものではなく、感謝するものであることを忘れた天皇は、仏に縋って

現世の苦難・危難から逃れようとしたのかもしれない


第59代 宇多天皇は歴史上初の出家した天皇であり、日本初の【法皇】である

今の時代のように、世俗の人間が仏教徒で居られる時代ではなく

出家して初めて仏の弟子、仏教徒になれた時代のこと・・・

神の子孫が仏の弟子になる不可解さ・・・祭祀王の歴史は黒く塗りつぶされていった

万世一系とは祭祀王の系譜をいうのではなく、天皇家の系譜と見たほうが

私は納得できるのである。  




Posted on 2017/03/29 Wed. 21:37 [edit]

category: 歴史

thread: 歴史 - janre: 学問・文化・芸術

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