誰にもある可能性 天皇の系譜  


旧ブログでも何度か書いてきましたが、自分の先祖を広く深く

考えたことが有る方は少ないはずです

全ての人には両親が存在します これは否定しようがありません

自分の両親は二人、祖父母が4人、曽祖父母が8人・・・・

ドンドン遡ると膨大な数の先祖の【血】に遭遇します

自分とは無関係と思われた意外な人物の血が自分に繋がっているとしたら

人生も捨てたものじゃない

そんな気分になるかもしれません


今上天皇の血筋を定説によって遡ると、ある意外な人物に到達します

さて、だれでしょう?

天皇の父系ばかりが口にされますが、父親だけで血統は繋がりません

男系で万世一系と言われるあまり、父系ばかり話題になりますが

血統は父系・母系等しく考えなければ片手落ちでしょう


天皇の系譜を辿っていくと、第93代 後伏見天皇まで行き着きます

後伏見天皇の家系(母系)を辿ると平清盛に繋がります(事実です)

さらに後伏見天皇の別の系譜を辿ると藤原道長へ、途中で別系譜を

辿っていくと源氏の頭領で源頼朝の父・源義朝に行き着きます


第109代 明正天皇の母親は徳川秀忠の娘・和子(東福門院)です

その母親はお江(お市の方の娘)で、織田信長に繋がります


第83代 土御門天皇の母系を辿ると7代前は大弐三位(紫式部の娘・賢子)

に行き着きますから、紫式部が天皇家の血筋に繋がっていると言えます

この世には【まさか】というものが存在します


このブログを見ている人の中で、紫式部や織田信長、藤原道長の血筋を

受け継いでいる方が相当数いるかもしれません

10代遡ると先祖の数が1024人、15代遡ると32768人の先祖が存在します

その数の先祖たちが複雑に絡み合うと天皇の系譜のようになっていきます

あながち「机上の空論」とは言えないかもしれませんね・・・・



私の父系は秋田県人です 母方は鳥取県人ですが、いつからそこに住んだのかは

不明です

徳川の世なら「移封」で領主と共に領地を転々とした可能性もありますし

途中から「仕官」した可能性もありますから、現住地ばかりがルーツではありません

歴史はロマンといいますが、たしかにそういう要素は十分に帯びていると言えますね


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Posted on 2017/11/10 Fri. 21:33 [edit]

category: 歴史

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天皇は祭祀王なのか?   


私は日本の古代史に興味があり多くの書籍を読んできました

しかし、いつもある壁に突き当たります

それは日本の天皇は祭祀王なのか? という疑問なのです

「疑うなど何と不敬な奴なんだ」

そんなお叱りを受けるかもしれませんが、旧ブログでもその壁に

先を阻まれ、今回も同じ壁に直面しております

たしかに日本の統治者であった古代大王は祭祀王だったのですが

或る時から祭祀王の痕跡が薄れ、仏教徒の姿ばかりになっていきます

祭祀王の姿を見せたのが明治天皇という人物ですが・・・

その後あろうことか天皇は神(現人神)だという事になって行きます

神の子孫だから敬うのが当然という立ち位置から、神なのだから

敬うのが当然という形式になりました


この問題の重要なカギは「万世一系」だったのかどうか・・・

なぜ神道の祭祀王が仏教徒になったのか・・・

なぜ天皇家の祭祀儀礼が物部系の形式なのか・・・

いつから日本の統治者(大王)が「天皇」になったのか・・・


これ以降できる限り分かりやすく書こうとは試みますが、旧ブログの

読者を対象に書いてしまうことが多々有ると思います

意味不明、解釈困難なことが有りますればお許しください


天皇家と大王家

独断と偏見で書くことですので、興味の無い方はスルーしてください



日本の天皇家は8世紀に創られた

私は天皇家というのは持統天皇以降に創られた系譜だと考えます

易姓革命的なことは、その少し前に起こっていますが

天皇という名称と天皇家という姿は持統天皇以降に完成したと

確信しております

大王家が繋いで来た「大王祭祀」はあくまでも自然神崇拝の形式で

太陽・月・風・雷・海・河・山などの精霊(神)を崇めていたと考えます


神は常に移動しているもので、天上に漂う神を降臨させるために、

神さまが迷わぬよう降りてくる「目印」として大樹・大石などの前で

祭祀を行ったものと思います

おそらく少数の部族単位では山や滝、河上に赴くことはできたでしょうが

部族の構成人数が多くなると、部族の大移動は非現実的になったことでしょう

そこで考え出されたのが、祠(祭壇)を造り神を招待する形だったのではないでしょうか

これこそが現在の神社が誕生する過程の第一歩だったと思います

おそらく7世紀中ごろまではこの形式で神祀りを行っていたのではないでしょうか

ところが、新しくヤマトの支配者になった持統帝には大きな引け目がありました

先祖をさかのぼる「リスク」という問題だったのです

その時点では古代豪族(地方大王家)の末裔が未だ「チカラ」を有していました

系譜の重さは比較しようも無いくらい違っていたという事です

そこで編み出されたのが【皇祖神】という禁じ手でした

語り継がれてきた神々の物語に手を加え、伊勢大神の鎮座する地に

新しい建造物を造り、そこに在るはずの無い女神を仕立てて

自らの祖神と称したのです

それが天照神(あまてる)を読み替えた【アマテラス】そのものだったのです

どうしてアマテラスの祀られている内宮が女神を祀る形式で建てられ

豊受大神を祀っている下宮が男神を祀る形式で建てられているのか

私は不思議でならなかったのです


それは私たちが女神・豊受大神が祀られていると思っていても、実際は

男神・アマテルが祀られているのではないか・・・

そう考えれば、式年遷宮の際に内宮のように女神仕様に変えない理由が見えてきます


下宮をまず参拝すると言われる所以は、本来祀られていた地神であるアマテルに手を合わせ

その後、新王朝が祀った「アマテラス」という神に参拝する形式だったのです

持統天皇は自分が天皇家の【祖神】となるべく、伊勢の地に自分自身を祀る事を

企んだのではないかと私は考えています


おそらく日本書紀という「持統朝の歴史書」が編まれる前は、違った【ヤマト史】が

存在していたはずで、引用すべき部分は引用し、消す部分は永久に消してしまった

どうして8世紀以前の古文書や書写が存在しないのか・・・

それは天皇家創始者である持統天皇とその側近(藤原氏)にとって不都合な

物だったからだと考えます


どうして伊勢に歴代天皇は参拝しなかったのか?

しなかったのではなく、する必要性が無かった

自分達の祖神でもない地主神・アマテルが祀られている伊勢に参拝する

意味が無かったということ

さらには、地主神が鎮座する場所に創作した神を祀った負い目も有って

「触らぬ神に祟りなし」と決め込んだのでしょう


アニミズム(精霊信仰)から緩やかな時間を経て人格神信仰に移行したはずなのに

その人格神すら信仰されていなかった天皇家の現実・・・

アニミズム信仰を排し、女神信仰(皇祖神)へ、そして仏教信仰を経てまた女神信仰へ

さらに現人神信仰へと推移していったのが天皇家の宗教の現実です


(おまけ)

日本は中国を手本に律令制度に進んでゆきますが

その中国では女帝(女性の皇帝)は例外を除いて存在しません

皇后が自ら皇帝に即位したのは唯一【則天武后(武則天)】だけです

624~705年という生涯であったと言いますから

持統天皇と同時代に生きた女性です

ここで注目すべきは、武則天が即位したのは690年10月です

そして持統天皇が即位したのは690年2月です

このことが教えてくれるのは、持統天皇は中国(武則天)に倣(なら)って

即位したのではない事、西アジアの国において古代では女性が王に

なることは有ったというのだから、半島からの渡来人が知恵を出した可能性が

極めて高いと思われます


*次回は天皇家の系譜について考えます。


Posted on 2017/11/08 Wed. 20:45 [edit]

category: 歴史

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地名の謎  


私たちは何の疑問も感じず地名というものに接している

特に難読漢字地名などは漢字を勉強し始めた人間には

難解としか思えないものが多い・・・・


しかし、私たちが躊躇いなく読んでいる地名漢字にも

多くの謎が潜んでいるのである


【近江】 おうみ(オオミ) と誰しも読んでいるがこの文字をそう読むことに

誰も不思議に思っていないのが現実である

   キン・コン ちかい

   コウ・ゴウ え

ときに引き合いにされるのが【遠江(とおとうみ)】という地名が有る

これもどうこねくり回しても とおとうみ などとは読めない漢字である

単純に考えれば、都から近い湖だから「近江」、遠くにあるから「遠江」

なんて思ってしまう、その根拠は・・・

京に近い琵琶湖が近淡海(ちかつあはうみ)であるのに対して浜名湖が

遠淡海(とほつあはうみ)であることによるという
 (百科事典より)

尤もらしい解説であるが、この日本に淡水湖はこの二つだけではないはず・・・

なんとも「後付」の解釈に感じてしまうのは私だけだろうか?


日本の地名の多くは漢字の呼び名ができてから音が出たのではない

音があったものに「文字」を当てたのが真相である


【大海人皇子】 というのも同じような要素が潜んでいる

これを素直に読めば おおうみ みこ と読むのが正常であるが

実際には おおあま と読むことになっている


愛知県三河地方には 大参 と書いて おおみ という名字があり

大見 とかいて おおみ という名字が存在する



私はすべての素(もと)は おおうみ という言葉から別れて

行ったのではないかと考えている

壬申の乱の時、東国が天武天皇に味方したと伝え聞いた途端に

朝廷軍はパニックになって敗走したという

それほどの武力を持った勢力が都に近い「東方面」に存在していた

私はそれが三河であったと思っている

三河は古事記や万葉集にも、水河、三川、三河、参河とも書かれており

かなり力のある部族が納めていた土地だった可能性がある

しかし、平城の京の内側は「三関」までであり、何か事あれば関を閉ざすのが

常識になっていた

当然ながら関の外は【東国】であり朝廷のチカラが弱かった場所でもある

東国のさらに東にある湖・・・だから 東東海 とうとううみ だったのではないだろうか

これが非常に発音しにくく、【とう とう うみ】から【とうとうみ】、そして【とおとうみ】に

変化していったと私は考えている

この地域を 東海地方 と呼ぶのも、関連が有るかもしれないが・・・


私は日本の大王(おおきみ)は各地から集まった豪族の長の代表が

諸豪族の信任を受けて即位した形式だったと思っている

当然ながら、律令制度ができるまでは、概ねそういう形で即位していった

天武天皇の何代か前の大王は東海地方、それも三河の統治者だった

だからこそ現在の近江という場所に【おうみ】という名を付けたのだと思っている

おうみ は東国・三河の海人を祖にする豪族が【大神(おおみ)】と呼ばれていた

からだと私は妄想している(笑)

記紀が間違った方向に誘導しているという事を出発点に考えれば、荒唐無稽

な発想に過ぎないことも、別次元の妄想が浮かんできてしまう

どうして大神という呼称になっているのか?

尊・命だったものが有るときから「大神」になったのにはきっと「理由」が有るはずだ

見たことも聞いたことも無いものが突然「具現化」することは無い

なんらかの知識・事実が存在したことによって、そう呼ぶようになったと

私は信じています。

Posted on 2017/10/16 Mon. 23:47 [edit]

category: 歴史

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男系による万世一系の暗示  

朝晩はめっきり涼しくなったのに、昼間は汗ばむ陽気が続いていて

体調管理が難しいですね・・・


日本の皇統は男系によって二千数百年続いてきた

誰しも疑わないこの言葉、根拠は言うまでもなく「日本書紀」です


皇太子の子・内親王はあくまでも皇太子の子供という立場でしかありません

親王の子・内親王は何処まで行っても親王の子でしかありません


現代では考えられませんが、妃・女御制度があった時代

A天皇の孫や曾孫が子供を産んだのち、縁戚であるB天皇に嫁いだ場合

その連れ子は「王」「王女」から「親王」「内親王」という立場に変わりました

*皇位継承権とは現天皇の血筋をどれだけ濃く継いでいるか、長幼の序に習い

男子に限られている(いた)、そういっても良いと思いますけど・・・


何を言いたいか?

日本書紀に出てくる天皇の中に、本来は皇位継承権が無かったり、ほとんど無いに

等しい人物が天皇になったことが有ります

第35代 皇極天皇(女帝)、第38代 天智天皇です

この人物(皇極天皇)は敏達天皇の皇子の子・茅渟王の皇女ですから

天皇から観ると曾孫の皇女という立場です

その皇女(宝皇女)が産んだのが有名な中大兄皇子(天智天皇)です

それも天皇に嫁ぐ前に産んでいますから、天皇の実子ではありません


それ以前に宝皇女という天皇の曾孫である女性が天皇に即位できたことも

解せません

*皇極天皇(宝皇女)の母系は不詳で、父方も詳しい事は不明な部分が多いのです

皇極天皇 父・茅渟王 母・吉備姫王

茅渟王 父・押坂彦人王 母・大俣女王

押坂彦人王 父・敏達天皇 母・広姫

私は父方ではなく、母方の系譜に着目しています

皇極天皇を含め母方の血統は・・・非蘇我系です

吉備姫王は母系は不詳でおそらくは大和の吉備出自、大俣女王も不詳で

広姫は息長真手王の娘とされ、大俣女王も息長系と思われます

蘇我氏が権勢を保っていたなら、この皇統は存在しえなかった

私は素直にそう考えています


日本書紀の言う通りなら、天智天皇も天武天皇も皇位継承資格が無いに

等しい人物だった可能性があります

ですが、私は天武天皇が古人大兄王だった可能性があると考えていますので

天武天皇は蘇我系の天皇の可能性があると思っています

古人大兄王(皇子)  父・舒明天皇 母・蘇我法提郎女

舒明天皇の第一王子・・・だからこそ「大兄」という呼称で呼ばれていた

その呼称すら後の天智天皇に奪われ、中大兄王と名乗る事を許してしまった

そんなわけで、壬申の乱は奪われた蘇我系(女系)の権力奪取(クーデター)だと

考えている長屋の爺です・・・


そういう事情から、天智系を主流(嫡流)としたい平安期の皇族は、天武系(蘇我系)の

皇統を抹殺して、御寺においても供養しなかったのだと考えます

男系男子でありながら、蘇我系女子で繋がってきた可能性は否定できないと

考えることと、現代人が思っている以上に、母系の力は相当に強かったと思えるからです


天皇の血筋だけで皇位を継承できたとは考えられないですし

古代も現代も天皇の周りにいる人間たちの【力学】で決められるものが「皇位」で

あり、不都合な人物は命だけでなく、その存在すら闇に葬られた・・・可能性も。



   検証 平城京の政変と内乱

     遠山 美都男著 (学研新書)

「朕(われ)が即位してから、今年で六年になる。その間には皇位を受け継ぐ

予定だった皇太子がいた。残念ながら、その皇太子はこの世におらぬが、

その母である藤原夫人をこのたび皇后に立てることにいたした」 (p27)


「朕がそのように考えるのは、口に出すのも畏れ多い、平城宮(ならのみや)で

この国を統治された、朕の母ともいうべき天皇(元明天皇)が、藤原夫人を

朕にくださったと時にこう仰せになったのを忘れ得ぬからなのだ。

『よいですか、この娘は特別なのですよ。この娘の父である大臣(おおまえつきみ

・藤原不比等)がどれほど朝廷に忠勤をつくしたことか。その事を思えば、この娘に

過失や失態が無い限り、けっして見棄ててはなりませぬぞ。』  (p28)


*このとき、満一歳になったばかりの【安積親王】が健在だったのは事実であり

藤原系以外の親王に皇位継承権が無かった事になる、実際に安積親王(17歳)は

仲麻呂の手によりに毒殺されたとされる。



Posted on 2017/09/26 Tue. 22:46 [edit]

category: 歴史

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日本の皇室と半島の関係  

昨日・今日とブログを書いても途中で記事が消える現象が

頻発し・・・とても萎えている長屋の爺です

数日前のウインドウズの更新から不具合が頻発するようになり

改善ならぬ「改悪」のWin10と友人たちは怒っています(笑)


さて朝鮮半島の話題になると眉間に皺を寄せて批判する日本人

かく言う長屋の爺も「嫌韓」の一人だが・・・

その嫌韓日本人の方々は半島の歴史には詳しくない気がする

マスゴミの表面上の「狭く浅い」半島史に洗脳されているだけ

私が詳しいとか言うつもりはないですが・・・


ハングル(朝鮮文字)の起源くらいは嫌韓日本人は知っているだろうが

文字ではなく「ことば・言語」について、あまり知られてはいないようだ

半島では7世紀くらいまでは今のような朝鮮語は使われていなかったと

いう説もあり、三韓(馬韓・弁韓・辰韓)では中国語に近い言語だったともいう

その辰韓が後の新羅(しらぎ)と呼ばれその南部にかつて【伽耶(かや)】という

日本の領土が存在した(4~7世紀)

その伽耶では「和語」が主要な言語であり、新羅や百済も和語の通じる

国だったと思われる

その百済・新羅の北に位置に現在のソウルやピョンヤンが含まれる【高句麗】

という大きな国家が存在していた

       kmap1.jpg




高麗神社が半島人と無関係ではないにせよ、日本人とは結びつかないことは明白

それでも「ウリの起源」と「朕の起源」を同じと言う感覚は理解できない爺です(笑)




ところで、現在の半島人は【ワイ(穢多)族 】といい、初期新羅を滅ぼし乗っ取った

王氏高麗の血筋(ワイ族)が現在の朝鮮人であり「高麗」との関連は種族名だけで

高句麗からの帰化人たちと現朝鮮人に明確な血統のつながりは見当たらない


私たち日本人が「高麗」とか「高句麗」と聞いても親近感がわかないのに

親近感を感じるのは、ある種の洗脳か思い違いとしか思えないのである(笑)


高麗神社には参拝できるのに、靖国神社には参拝できない人間が我が国の

かつての祭祀王の実像なのである・・・・

半島人は口を開けば【半万年の歴史】と叫ぶが

かの国に半万年などと言う歴史など存在しない

大陸や半島というものは民族が移動してその土地の人間が入れ替わる

事も少なくない、とくに侵略されればそのほとんどの住民が虐殺や売買

され、根絶やしに近い状態になる事が多い、いうなれば「人種民族の通り道」

という事になる

かの国も例外ではない・・・

朝鮮の歴史とは【属国の歴史】と言って過言ではない

宋、契丹、金、モンゴル、清などの属国になる事で繋がってきた屈辱の千年だった

独立国家が中国に毎年若い娘を、数千人の規模で貢いで来たのが事実であり

事大主義がDNAに刻まれたのも「属国体質」から起こったものかもしれない

気持ちは先進国だが、内情は開発途上国、虐げられることのトラウマから

相手を罵倒することに快感を感じ、弱いと見れば徹底的にたたく国民気質

それが朝鮮半島人の素顔なのである。


 気持ちだけは先進国の南朝鮮だが、この国が世界から独立国と

認められたのはつい最近の話・・・

1991年に国連に加盟してから世界の国々から「独立国家」として認知された

夢想の中で生きている民族にはこの事実すら見えないのだろう(笑)





私の蔵書はおそらく400冊をはるかに超えている気がしますが

その多くは古代史に関するもので、日々参考にさせていただいていて

今回から記事の最期に書籍の紹介と一部の引用を掲載したいと思います


出雲大社と千家氏の秘密

著者  中見 利男氏  (宝島社発行)


「明治政府は王政復古、祭政一致の理念を打ち立て、天皇を天照大神から

続く万世一系の絶対的な権威として国家神道の整備に着手する」 (p54)


「年の始めの例(ためし)とて、終りなき世のめでたさを

 松竹たてて門ごとに 祝う今日こそ 楽しけれ」

これは千家尊福が作詞し、上真行(うえさねみち)が作曲した「一月一日」の

一番の歌詞である。 (p58)

Posted on 2017/09/22 Fri. 19:53 [edit]

category: 歴史

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