日本の皇室と半島の関係  

昨日・今日とブログを書いても途中で記事が消える現象が

頻発し・・・とても萎えている長屋の爺です

数日前のウインドウズの更新から不具合が頻発するようになり

改善ならぬ「改悪」のWin10と友人たちは怒っています(笑)


さて朝鮮半島の話題になると眉間に皺を寄せて批判する日本人

かく言う長屋の爺も「嫌韓」の一人だが・・・

その嫌韓日本人の方々は半島の歴史には詳しくない気がする

マスゴミの表面上の「狭く浅い」半島史に洗脳されているだけ

私が詳しいとか言うつもりはないですが・・・


ハングル(朝鮮文字)の起源くらいは嫌韓日本人は知っているだろうが

文字ではなく「ことば・言語」について、あまり知られてはいないようだ

半島では7世紀くらいまでは今のような朝鮮語は使われていなかったと

いう説もあり、三韓(馬韓・弁韓・辰韓)では中国語に近い言語だったともいう

その辰韓が後の新羅(しらぎ)と呼ばれその南部にかつて【伽耶(かや)】という

日本の領土が存在した(4~7世紀)

その伽耶では「和語」が主要な言語であり、新羅や百済も和語の通じる

国だったと思われる

その百済・新羅の北に位置に現在のソウルやピョンヤンが含まれる【高句麗】

という大きな国家が存在していた

       kmap1.jpg




高麗神社が半島人と無関係ではないにせよ、日本人とは結びつかないことは明白

それでも「ウリの起源」と「朕の起源」を同じと言う感覚は理解できない爺です(笑)




ところで、現在の半島人は【ワイ(穢多)族 】といい、初期新羅を滅ぼし乗っ取った

王氏高麗の血筋(ワイ族)が現在の朝鮮人であり「高麗」との関連は種族名だけで

高句麗からの帰化人たちと現朝鮮人に明確な血統のつながりは見当たらない


私たち日本人が「高麗」とか「高句麗」と聞いても親近感がわかないのに

親近感を感じるのは、ある種の洗脳か思い違いとしか思えないのである(笑)


高麗神社には参拝できるのに、靖国神社には参拝できない人間が我が国の

かつての祭祀王の実像なのである・・・・

半島人は口を開けば【半万年の歴史】と叫ぶが

かの国に半万年などと言う歴史など存在しない

大陸や半島というものは民族が移動してその土地の人間が入れ替わる

事も少なくない、とくに侵略されればそのほとんどの住民が虐殺や売買

され、根絶やしに近い状態になる事が多い、いうなれば「人種民族の通り道」

という事になる

かの国も例外ではない・・・

朝鮮の歴史とは【属国の歴史】と言って過言ではない

宋、契丹、金、モンゴル、清などの属国になる事で繋がってきた屈辱の千年だった

独立国家が中国に毎年若い娘を、数千人の規模で貢いで来たのが事実であり

事大主義がDNAに刻まれたのも「属国体質」から起こったものかもしれない

気持ちは先進国だが、内情は開発途上国、虐げられることのトラウマから

相手を罵倒することに快感を感じ、弱いと見れば徹底的にたたく国民気質

それが朝鮮半島人の素顔なのである。


 気持ちだけは先進国の南朝鮮だが、この国が世界から独立国と

認められたのはつい最近の話・・・

1991年に国連に加盟してから世界の国々から「独立国家」として認知された

夢想の中で生きている民族にはこの事実すら見えないのだろう(笑)





私の蔵書はおそらく400冊をはるかに超えている気がしますが

その多くは古代史に関するもので、日々参考にさせていただいていて

今回から記事の最期に書籍の紹介と一部の引用を掲載したいと思います


出雲大社と千家氏の秘密

著者  中見 利男氏  (宝島社発行)


「明治政府は王政復古、祭政一致の理念を打ち立て、天皇を天照大神から

続く万世一系の絶対的な権威として国家神道の整備に着手する」 (p54)


「年の始めの例(ためし)とて、終りなき世のめでたさを

 松竹たてて門ごとに 祝う今日こそ 楽しけれ」

これは千家尊福が作詞し、上真行(うえさねみち)が作曲した「一月一日」の

一番の歌詞である。 (p58)
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Posted on 2017/09/22 Fri. 19:53 [edit]

category: 歴史

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日本書紀の疑問・矛盾 (弐)  


めっきりと秋らしさを感じる日々になりました

寒いのも暑いのも苦手な爺ですが、秋がとても楽しみで・・・

秋の食べ物でもなく、秋の観光でもなく

秋の風が訳も無く大好きな変わり者でして・・・

何処かに秋の風を求めて旅したい長屋の爺です



さて、歴史好きの方や歴史を研究している方、歴史のプロの

方々が「バイブル」のように感じている【日本書紀】ですが

兎に角長屋の爺には「突っ込みどころ」満載のとても大好きな

史書なんです

だれしも日本の歴史を考えるとき、物差しにする日本書紀ですけど

不可解なことは観ないように考えないようにして、「好いとこ取り」で

都合よく解釈する傾向にあるんですね(笑)


日本書紀とはいったい何だろう?

日本書紀の存在は果てしなく「謎」なのを知らない人が多いですが

その辺りからちょっと「不思議な史書」という事実を考えてみます



この日本書紀なる書物(史書)の存在が語られているのが

【続日本紀】の記述によるとされるのが定説になっています

「先是一品舎人親王奉勅修日本紀 至是功成奏上 紀卅卷系圖一卷」

素人考えですが、此処に記されている「日本紀」がどうして日本書紀なのか

だれも不思議に思わないことです(笑)

例えは間違っているかもしれませんが、鈴木一郎という人と鈴木太一郎という人物は

本来は同一であると言われているようなもの・・・

これがこの世界(業界)の判断なのです

研究者の都合なのか、権力者の都合なのかは不明ですが

そういう結論に導いたのか、それともこれで万事収めようとしたのか・・・・


続日本紀のいう「日本紀」と「日本書紀」が同一だという根拠は希薄です


では謎の部分にも目を向けてみます

この日本書紀は天武天皇の勅によって編纂されたという事になっていて

その理由が、中大兄皇子(天智天皇)が蘇我蝦夷を滅ぼしたときに朝廷の

書物を保管していた書庫まで燃えてしまって、「天皇記」が消失したからだと言います

その際に、「国記」は難を逃れ中大兄皇子(天智天皇)に献上され、資料として

引用されたように考えられています


此処で疑問です

そんな大事な「国記」なら書写して何冊かを保管してあるはずですが

この日本には現存しません

中国の「お経」などは貴重なものですから、何人もの僧や貴人たちが

書写しています

その事から、残っていないのではなく「残さなかった」というのが私の考え方で

なぜ残さなかったかは、「不都合なこと」が多く書かれていたからだと

確信しています


まず、そもそも持統天皇の「夫」である天武天皇の生年月が不明な事

持統天皇にすれば「愛する夫」であり、元明天皇にすれば「叔父」であり

元正天皇にすれば「祖父」なのですから、天皇史を残す時に「大事な人」の

経歴を「端折る(はしょる)」ことは意味不明なのです

さらに天武天皇の経歴は30歳以降しか残されていません

子供たちも30歳を過ぎた後に【十男七女】が誕生していますが

十代後半から二十代後半までの十数年間に妻も娶らず子供など

居なかったとでも言うのでしょうか?

30歳になって天から降臨した天皇だったとでも言うつもりなのか・・・・

*天武天皇については書き始めると、とても長くなりますので別の機会にでも


日本の歴代天皇の【生没年】が解っているのは・・

第30代 敏達天皇 538~585年

第33代 推古天皇 554~628年

第34代 舒明天皇 593~641年 と以降は明確に残っています

ところが第40代 天武天皇の生年が不明なのですから

日本書紀の記述を信じろという方がどうかしている・・・

30代の天皇の生没年が残っているのに、31代~32代が不明

33代推古天皇はハッキリわかっている・・・???

分かっているのではなく敢えて書き残したと考えると、疑問が見えてきます

私の持論は第33代推古女帝は架空の天皇と言う認識です

推古天皇を基準に前後の天皇を書き残した故、つじつまの合わない天皇は

生没年を不明にする必要があったと考えるべきかもしれません


なぜ「天皇記」や「国記」が残っていないのか?

遺すことによって不都合な人間が多くいたという証でもあります

何が不都合だったのかは、私は「蘇我氏」の行跡と天皇家(大王家)との

関係を後世に残せなかったからだと思っています


次回は歴史の常識のウソについて、日本書紀を考えてみます

Posted on 2017/09/20 Wed. 20:18 [edit]

category: 歴史

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伝える事  


先日、調子の悪かった腰を痛めてしまった

「魔女の一撃」という厄介な奴で・・・・

どういう体勢でも辛く、湿布と痛み止めのお世話になっています

そんなわけで更新は様子を見ながらという事で・・・



最近の気象は我々がかつて経験したことのないような

まさに「異常」にも感じる状況です

我が日本にも【天人相関】という考え方があります

徳の無い者が国を治めると天の怒りを受けるというもので

異常気象(干ばつ・豪雨・冷害・地震)や疫病(伝染病)などの流行だと

され、戦争などは含まれません

なぜならここで言う「天の災禍」とは自然現象が基本にあるからです

どうして自然現象なのかといえば、日本の古来の神とは「自然神」が

中心だからです

八百万の神とはたくさんの人格神ではなく、自然そのものであり

そこに宿るとされる【精霊】が神であるという考えです

これを「こじつけ」「迷信」と思う人には理解できない話で

先人たちが経験したことから導き出した「戒め」だと私は解釈しています



私たちが古代史や歴史を考える時、現代感覚で考えてしまいます

例えば現代ではお年寄りより若者の方が「知識」や「情報」をたくさん

持っています

それが良いとか悪いとかは別として、毎日発信される情報知識においては

高齢者は「置いてけぼり」を食らう事がしばしばあります

しかし、古代では知識・情報は空を飛んでくることは無く、どちらかというと

経験則が生活の基準になっていたと思えます

その意味から「情報」「知識」「技術」は一部の人間、それも歳を経た「長老」

と言われる人たちの【占有】に近かったと私は思っています


ではその知識はどうやって伝え続けたのでしょう?

おそらくその多くは口承(こうしょう)だったと思われます

*口伝え・口伝(くでん)ともいいます

そのなかでも特に重要なことは多くの者にではなくある限られた

人間にだけ伝え残されたと考えています

それを口秘(秘伝、一子相伝)などと言うのではないでしょうか・・・・


なぜ口承などを持ち出したのか?

古代史研究者のバイブル「日本書紀」には口承と思われる記述

一書(あるふみ)というものが数多く残されて本文に添えられている

嘘をつくなら徹底して突き通すはずなのに、この一書の記述は不可解

なのである

私は本文に書き添えられた「一書」とは後世の人間が書き足した

各部族に伝わる口承ではなかったかと・・・

*機会が有ればその一書を紹介したいと思っています


「一子相伝」というものは、とても都合勝手が良いものでして

伝えた者と伝えられた者以外はその総てを知ることができない

日本の皇統にも「天皇祭祀」は一子相伝と言われていますが

「私が伝えられたのはこういう事でした」

などと聞かされても、事実かどうかなど知る由もありません

なんでも記録できる時代において、動作・作法ですら明文化できる時代ですが

そんな書き物が有るのかどうかすら知り得ません

私の暴論ですが一度途絶えた皇室祭祀について、明治政府は「天平御遺誡」

を基に祭祀の凡その部分を復活させたのではないかと考えています

天皇家から仏教を取り上げたからには、祭祀は欠かせない宗教行事だったと

思われます

あくまでも万世一系で二千数百年の祭祀王の家系は譲れない事だった

天皇=アラヒト神として、徳川の治世を否定するために・・・・

天皇が人だから人臣が天皇家や貴族を蔑ろにする

てんのうが神であれば、何人(なんびと)も不敬な振る舞いをすることは

許されないという形に持って行った

その為にも「伊勢神宮」が天皇家の祖神であることを強調したかった

それが明治天皇による初めての伊勢参拝だったと私は考えています。

Posted on 2017/09/13 Wed. 23:08 [edit]

category: 歴史

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日本書紀の疑問・矛盾 (壱)  


私たちはこの国が【倭(わ)】から【邪馬台国】を経て【ヤマト】という

国に変わって(移って)行ったと教え込まれてきました

その根拠は言うまでもなく「日本書紀」に書き残されているからです

結論から言うと、そういう事になりますね・・・


その有り難い「バイブル」のような日本書紀は事実を語っているのか

私はかなり疑問に感じています


この国に文字や技術が渡ってきたのは百済からだと日本書紀は言います

「なるほど」と感心してはいけません!

日本の言葉の中に「音読み」という漢字の読みがありますが、この音読みの

ことを「呉音(ごおん)」「漢音(かんおん)」といいます

この呉音のことを「和音(やまとごえ・わおん)」と平安初期までは呼んでいました

平安中期になって「漢音」が普及してきて、区別するために「呉音」と呼ぶように

なったと言います

この「呉」とは三国志の【魏・呉・蜀】の呉の国の事だと言われています

魏志にも「倭」のことが書かれていて、魏の役人が倭人に

問い質したことが記載されていて、「卑弥呼」女王説が確立

しています

どうして魏の役人の質問にきちんと答えられたのでしょう?

それは魏志のいう倭人がその時代の中国大陸の言葉を理解して

いたからではないかと私は考えました


邪馬台国が存在した時代には「三国時代」の中国の言葉がある程度

理解できていたのではないでしょうか・・・

言葉は文化ですから、邪馬台国成立以前に大陸との文化交流があった

と思う方が自然です

でも、邪馬台国の使者に問い質すという事は、邪馬台国と魏の国は国交

は無かった事になります

とすれば、それ以前の国(国家組織)が大陸との国交があったとみるべきで

その国こそ古代の日本だという事になります

しかし、日本書紀はその事には触れていません

私はその国こそ「古代出雲王国」だろうと思っています


日本の着物の事を「日本服」とは言いませんよね・・・

日本の服は「和服」といいますけど、本来は「呉服」という呼び名で

認知されています

そうです、「呉の服」という呼び名も、大陸から伝わってきた衣職から

そう呼ばれるようになったと思われます

日本書紀には縫工(衣織物)の技術は応神天皇の時世に「百済」から

伝わり、その後「呉の国」から職工を呼び寄せたと記されています


しかし・・・

応神天皇の時代4世紀後半~5世紀初頭に【呉の国】は存在しません


呉と言う国は中国に三度存在しています

一度目は紀元前400年代(春秋・戦国)に「呉」と言う国があったらしいこと

二度目は三国時代(222~280年)に「呉」と言う国が存在した

三度目は五代十国時代(902~937年)に「呉」と言う国が存在した


日本書紀に言う「呉」の国の職工が日本に来ることは不可能なのです

これは出雲王国が呉の国から機織り技術や文字文化を取り入れたことを

知っていたから「拝借した」記述だと思えます

それを大陸ではなく「百済」からだと主張することこそ、日本書紀の編纂時に

権力を保持していた者たちが、百済出自の末裔だったことを匂わせています


呉の国から来た言葉を一度は隠し、消した過去だったのですが、漢音という

文字文化が平安中期に定着したことで、区別する目的で、和音ではなく「呉音」

としたのではないでしょうか・・・

そもそも「呉の言葉」「呉の国の音」だったのですから、「呉音」は間違いでは

無いのですから、平安初期の権力者の思惑など平安中期の官人は配慮できな

かったというところかもしれません(笑)


次回も日本書紀の疑問・矛盾を探していこうと思います。


Posted on 2017/09/10 Sun. 22:22 [edit]

category: 歴史

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皇位継承と三種の神器  


先日東京へ一緒に旅した友人から焼酎を頂いた

これがまた口当たりの良い芋焼酎で後を引いてしまう

お湯割りがメインの私が今ではすっかりロックで呑んでいる状態で

生き急ぐ気持ちは無いが、呑み急ぐ心境になった


最近は妙に時間が無いという強迫感が有るのに、暇さえあれば横になっている

生命力が落ちてきているのかもしれないなどと・・・


どう足掻いても、なるようにしか成らないのが人生です

なんたって、長屋の爺の人生は ケセラセラ ですから(笑)



さて天皇が即位するのには三種の神器の継承が当たり前になっています

では、今度の譲位に於いて今上天皇から新天皇に引き継がれる【神器】

とは何と何でしょう?

鏡と剣と・・・

きっと皆さんは【勾玉】だよ! って思うかもしれませんが、残念ですが

不正解です

我々が教えられている三種の神器は「神話の世界」での話でして

天皇即位の際に引き継がれる神器は種類も数も定まっていませんでした

現在の三種の神器は・・・

【璽(じ)】 簡単に言うと 天皇の印

【劔(つるぎ)】 おそらく 天群雲の剣 のコピー

【鏡】 八咫の鏡 のコピー

の三種類だと思われます


どうして「玉(勾玉」が無いのか?

とても難しい問題ですが、私の暴論からすると・・・・

日本書紀が書かれた時代は律令制度がほぼ確立していて

天皇の印(璽)が大きな意味を持っていたという事と

勾玉は古代ヤマト成立時(飛鳥以前)には作られなくなっていて

伝承・伝世の遺産のような存在だったかもしれません

日本の神器にかんする記紀の記述は不正確な記述が多く

信頼性が薄いと思っています

そもそも劔や鏡という神器も日本書紀の継体天皇の即位記事

に初めて出てくるものです

*允恭天皇  天皇之璽

*清寧天皇  璽

*顕宗天皇  天子之璽

*継体天皇  天子鏡劔璽

*宣化天皇  劔鏡

*推古天皇  璽印

*舒明天皇  天皇之璽印

*孝徳天皇  璽綬

*持統天皇  神璽劔鏡

記紀の記述にある 天皇之璽 というのも奇怪な記述であり

そもそも【璽】というのは「王者の印」という意味なのだから

璽=天皇の印 という事になるのに、「天皇之」という形容詞を付けている

時点で、後世の人間が「璽」の意味を理解せずに書き残したことになる

とうぜん「神璽」という記述も、神性を持たせるために神という文字を

付けたに過ぎないし、璽印も同じ意味の言葉を重ねる意味が不明で

8世紀に 璽 というものが重要視されていたのか、あるいは本当に

璽が機能していたのか不明なことが多いです

暴論ですが、この当時は「金印」のような、持っていることが「王者の証し」

の位置づけだったと私は考えます


これを見る限り、三種の神器というものが、後世の人間が古事記の神話の

世界から、ちゃっかり「お知恵拝借」したものだと私は想像しています

律令制度と共に「書類」という新しい媒体が発生し、印を押すことが増えてきたこと

は間違いないですが、何にでもやたら押すという事ではなく、それを持つこと自体に

権威が備わっていたのではないかと思っています


勾玉はヤマトの王権ができる前の文明の「宝物」で、どんな使い方をしたのかも

不明なまま現物だけが飛鳥時代まで残されていたため、塔の下に埋めて魔除け

のような形で使用したものと考えています

日本の天皇制度の創設は持統天皇からと考える長屋の爺の根拠は

こういうところにも表れています

あくまでも万世一系にしなければ不都合だった理由があるから

遡って皇統を整える必要があった

私は暴論と言われてもそう確信しています


次回は日本書紀の「疑問(嘘)」のあれこれなど考えてみます。

Posted on 2017/09/06 Wed. 23:26 [edit]

category: 歴史

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