日本男児の矜持  


静観しようかとも思ったがあまりの卑劣さに

一言書いておきたくなった(笑)


日本人は二種類の人間が存在する

日本国籍を有するもの・・・(公的に日本人として認められている)

日本国籍を有し、尚且つ日本人の矜持を持つ日本男児・大和撫子


日本男児の矜持とは何か?

日本男児たるもの婦女子に乱暴狼藉を働かない事が原則である

妻や家族、友人知人の婦女子に手をあげる行為をする者は

日本男児などではないと断言する

もしそのような行為をする者がいれば、間違いなく半島人か大陸人である


言葉の暴力と言われるが、まさに彼の言い分は【暴力】そのものである


この世の中は「肯定するもの」「否定するもの」に大別できる

自分の気に染まぬからと言って「誹謗中傷」するなど

似非日本人としか思えない・・・


今回の【勝手に騒ぐ愚か者】は本当に日本人なのか?

まるで駄々をこねて悪態をつく小学生か、半島人の

火病の発作のごとき醜態である


学校では優秀だったかもしれないが、他人を見下した論調や

罵詈雑言の数々は観ていて悪寒を感じてしまう


寛容さの欠片もなく、半島人のように矢継ぎ早に相手を誹謗し

その論理に全く整合性も無く、勝手な思い込みというか半島人の虚言

を感じさせる文字が並んでいる

その醜くおぞましい文字の羅列に共感する人も多いとか・・・

お花畑日本人なのか、半島の同胞なのか(笑)


私は今回の騒動を観て、ある事と共通しているのでは?と思っている

無差別殺傷事件の犯人にダブッて見えるのは私だけだろう・・・

彼等は決まって「誰でも良かった」という台詞を吐く

しかし・・・言葉とは裏腹にきまって「弱い婦女子や老人子供」をターゲットにする

つまりは体育会系の「猛者」や「裏社会の人間」には向かっていかない小心者・・・

一般的に言うところの「ヘタレ」だからだ


日本のブログで今回のターゲットになった方々以上に、過激な

記事を書き続ける人は沢山いそうなのに、どうして今回の方々が餌食に

なったのかは疑問であるが、反撃されなさそうで人気ブログの主に

白羽の矢を立てたのかもしれない


私の私感だが、F氏のブログの閲覧数が一日どれくらいかは不明だが

カナダの主のブログは一日数千から万越えもある人気ブログである

自分が一番の自尊心の強い人にとって、看過できないブログなのかもしれない

まして・・・人気ブログ主同士が現実にあったと聞けば、火病を起こしても

不思議ではない(笑)


ストーカーのような雰囲気も有り、火病のような様子も見られ

とても理念を持った「モノノフ」とは感じられない

F氏とD氏は論理の組み立て方、文章の表現の特徴から同一人物の

可能性もある

D氏は実在なのかと考えてみたら、ロム専とは思えないし、F氏を通さずに

自分でブログを開設して記事にしたほうが・・・・

大きなお世話と言われそうだが(笑)


最後にこれだけは書いておきたい・・・・・

カナダの親父さま、そしてジュゴンさんは誹謗中傷されているような方々ではない

実際にお会いした私は八百万の神に誓って、そう断言します!
 



* 私のような過疎ブログには噛みついてこないでしょうけど・・・

失うものが無い老い先短い爺には、恫喝も嫌がらせも効き目が無いです

私はあちらと違って先祖代々「武士(もののふ)」の家系であり

おまけの人生、失うものも悔いも恐怖も一切無いです 念のため。
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Posted on 2017/07/23 Sun. 22:05 [edit]

category: 私の思い

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万葉  


万葉・・・・

この言葉は誰もが知る【万葉集】でご存知だと思うが

私はなぜ「万葉集」だったのか長い間不思議に思っていた

当たり前と思えば「当たり前の事」であるが、どうして?と考えた人は

実際に居るのだろうか,、という疑問を感じる長屋の爺です



【万】 マン、バン よろず

元の文字は 【萬】 虫の形である

おそらくは「蠆(さそり)」の類だという

なぜ 蠆 が万になったのかは不明だが、甲骨文字では数字の

「万」として用いた例があるという

よって、数字の万、よろず、あまたとして使われる


【葉】 ヨウ ショウ は よ

元の文字は 【枼】 ヨウ である

枼 は木に新しい枝が三本伸びている形

その枝の上のものを「葉」といい、「木のは」の意味となり

木の端(は)にあるから「木の葉」ではないかと私は考える



では「万葉」とはどういう意味なのだろう?

ベタな解釈をすれば、「多くの言の葉」を集めたものだろうが

私は別の考え方をしている


万葉集については諸説あり、編者や成立時期なども定まっていない

持統天皇の時代から元明天皇を経て、元正天皇の時代に完成したと

言う説もあり、1~15巻で編まれ、さらに16~20巻が増補されたとされる

私はこの万葉集の姿こそ、日本書紀の姿を物語っているものは無いと

常々考えている

なぜなら、この万葉集も公になったのが平安中期であり、存在が公に

ならなかった日本書紀と似すぎていると感じている


共に持統天皇の時代から元正天皇の時代にかけ編纂されたと言う事実

それまでの「文献」「古文書」が存在しないという不思議・・・

「日本紀」でもなければ「日本記」でもない【日本書紀】

「万葉歌集」でもなく、「やまと歌集」でもない【万葉集】


ヤマトの最上位に位置する「天皇の歌」から、最底辺に生きる

名も無き低い身分の人々の声・・・

ヤマトの上端から下端までの声(歌)を集めたもの・・・

数多(あまた)の階層に生きる人々の歌を集めた歌集である


しかし・・・私は当初の万葉集は万葉と言う言葉とは無縁の歌集

ではなかったかと思っている

天皇を称賛、誇示するための「歌集」として編纂が開始されたが

編者が次々と変わり、権力者である天皇も変わり、編者の意向が

反映され始めて、次第に現在の歌集の姿に書き換えられた

私は暴論であるがそう思っている


だからこそ日の目を見ずに平安中期まで埋もれていたのではないだろうか


* アイヌ語で「ムン」は 草 「ハム」は 葉のことです

ムン(マン) ハム(ハ) とは 草葉のこと、この歌集の裏側に

名も無き人々(草葉)の生の声が刻まれているのかもしれません。


毎日朝早くから鳴く《セミ》ですが・・・

この「蝉(せみ)」という言葉も「音」が先にあったと思っています

セミ と言う呼び名が有って、木にしがみついて鳴く姿から 背・見 

そして・・・蝉 と言う文字になったのだと考えてます

万葉かなで「音」を文字に当てはめるときに、見た目から付けることは

容易に想像できます

逆に難読文字の多くは「音」を無視して、強引に文字を「あてがった」からだと

最近思うようになりました


万葉時代と言うのは学者が唱えているだけの曖昧な区分です

万葉集を基準にそう呼んでいるのでしょうが・・・


なぜか 【万葉】と聞くと心が穏やかになるのは不思議です

日本に現存する古代史料が少ない平安以前の時代の足跡

それゆえ「万葉集」の存在が日本人の心のよりどころになって

いるのかもしれません


謎や疑問が多く残る万葉集ですが、消された民族の足跡であることは

間違いないと長屋の爺は思っております。

Posted on 2017/07/21 Fri. 21:35 [edit]

category: 文字・漢字

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コメント欄の功罪  

この記事はタブレットで書いております

誤字脱字、意味不明の記述がありましたら御容赦ください

(何せ老眼の爺の書くブログですから)


私のブログがどうしてお祭り騒ぎに成らないのか?

答えは簡単です

閲覧者が眼にして不快に思ったり、強烈な思考のコメンテーターの書く

コメントが、承認するに相応しいかどうか、そんな判断をしなければならない

ようなコメントは承認しないからです


(そういったコメントは長屋の爺の基準で

判断しているため、他の閲覧者が関われないように心掛けています)


承認するべきか否かはブログ主の判断です

実際の長屋の爺をご存知のかたは分かってくださいますが...

生来の 小心者 ですから、危機管理には長けています(笑)


時に承認の判断を違えるとコメント欄が独り歩きしてしまいます

包み隠さず出すのも閲覧者のため、見せない配慮も閲覧者のため

どう選択するかはブログ主の判断です


そもそも、他人のブログ記事に対し批判コメントすることが

どうなのだろう?

私には理解できないことですけどね

私には大きなお世話、他人の家の会話に土足で介入することに

通ずる話だと思います

一人の慮外者に場を貸せば、狢たちの修羅場になるのは眼に見えている

私はそういう類いのコメントは承認しません

却下を続ければ、不快コメントが来なくなります

長々と持論を書き連ねるコメントなど私のブログに必要無いことですし

同意するにしても長文は秘密コメントにするとか、批判するなら堂々と

自分のブログ記事に書けば良いのです


この世のなかは肯定する者、否定する者、無関心な者で構成されています

同調する者が居て、批判する者が居て当然ですよね

しかし、閲覧者で不快な気分になるために訪問する人は稀有でしょう

自由な発言には見えない不快感が伴うことが多くあります

特に凝り固まった「持論」を持つ方の中には、相手を攻撃することで

持論を押し付ける行動に向かうこともあって、注意する必要があります


特定の組織や個人に傾倒したり、妄信的な傾向の方は異論に対し

極めて攻撃的な言動をすることもあり、その判断が難しいですが


私は毎日30件ほどのブログを閲覧します

人気ブログは少なく、同意することが多いブログ、心の暖まるような

ブログ、教えられることが多くあるブログなど多彩ですが、コメントは

熟慮してから公開か非公開かを決めて投稿しています

中にはブログ記事やコメント投稿者に、誤字脱字だけを指摘する閲覧者も

おりますから、コメントするにも二の足を踏んでしまいますけどね

ブログを閲覧する人は十人十色です

閲覧者全員に満足してもらう記事など有り得ないと思っています


私の願いは、言いたいことがあるなら、自分のブログで書いて欲しい

小判鮫のように特定のブロガーにへばりついて、マンセーコメントする

そんな現実を冷静に考えていただきたいと、密かに思っています

歯の浮くような と言いますけど、そういうコメントばかりの

ブログは敬遠したい、そう思う事もあり複雑ですけど、所詮は

気のあった仲間が集う空間ですから、それでいいとは思っています


私はブログは閲覧してもコメント欄は見ない事が多く、何かあるのかな

と思った時に覗くだけです


天に唾する

特定のブロガーを誹謗中傷するブロガーは、所詮その程度と

割り切って相手にしないように心掛けましょう

信じる事によって何でも許されるわけではないのです

どんなに素晴らしい言葉を操っていても、粗暴な言葉で誹謗する姿

を見せれば、お里が知れると私は思っています

そのような行為が天に恥じない行為かどうか判断出来ないのか?

その事こそが大切なのだと私は考えています。







Posted on 2017/07/20 Thu. 11:04 [edit]

category: 私の思い

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つける薬も無い  

《 祭だ ワッショイ・・・炎上 上等! 》


私がこのブログを始める前・・・

と言っても、前ブログを止めて、どうするか思案しているとき

いっその事「親しい人」だけが閲覧できるスタイルにでもしようかと

本気で考えていた時期がある


私の実態は「けっこうな過激爺」であり、本音を書けば騒がしくなる

ひよった読者の相手も鬱陶しいので、数人の親しい読者だけのブログも

良いかな・・・なんて考えていた


どうしてそう思ったか?

最近のブログのコメント欄を見れば、誰もがそう感じてしまう事だが

第一に 【挨拶ができない人間ばかり】

第二に 【他人様のブログのコメント欄に、長文の持論を展開する】

第三に 【まともなブログネームすら書かない】

第四に 【冷静に、且つ論理的に物事を考えられないで批判する】

最近は私のブログは「平穏無事」 (40人くらいの閲覧ですから 笑 )

なので、その心配も無駄なのですけどね・・・


他人様の家なり、職場を訪れていきなり用件を話し出す人間など

この世に居るのでしょうか?

先ずは 【挨拶】 【名乗り】 そして【用件】ではないでしょうか・・・

そんなことも理解できない人間が、偉そうに講釈垂れると腹が立つ


他人のブログ批判するほど「ヒマ」なのでしょうけど

何かを信じるのは結構な話だとは思いますが、それを他人に強要

するのは、いただけない話だと思っています

わたしは「痘痕も靨(あばたもえくぼ)」が大嫌いで、盲信することも

嫌いなので、シンパサイザーになることもありません

政治家であろうと、役者であろうと、歌手であろうと・・・・


過激な批判をする人は、周りが見えなくなっている事に気付いているのでしょうか?

私はブログで不適切なコメントを書く人の多くは、自身はブログを書いていない人が

大多数のような気がします

言い換えれば、フィールドに降りないで、観客席から罵声&ブーイングする・・・

姑息な輩とでも言いますか・・・

非論理的なことも恥ずかしくもなく口にする・・・どこかの国の国民のように


私は常々こう書いてきました

反論があるなら 自信のブログに書いて「招待状」をください

(観るか観ないかは私の自由ですけど・・・・)


そんなわけで、ブログを書かないけど批判コメントを頻繁にする人は

ブログに書くとダメ出しされたり、批判されるのが嫌で「書かない」

のだと、私は思っていますが・・・

結局、他人様のブログに「ダメ出し&過激な批判」を平気でする人は

評論家やコメンテーターにでもなった気なのかな?

なんて思っていますけどね(笑)


現代は「100かゼロか」、「白か黒か」、「右か左か」、「敵か味方か」

そういう短絡的な思考で動いているようです

忖度とか斟酌とは別の【慮る(おもんばかる)】ことが忘れられています


熟慮せず短絡的に物事を判断する風潮は日本人には似合いません


私のような人間は世の中のマイノリティーだろうし、不必要な人間ですが

持って生まれた性分ですので、今更変えることもできません

さらには、私のような馬鹿につける薬もありません・・・

そして・・・現代人の「病」に効く薬も、無いような気がします。

Posted on 2017/07/18 Tue. 23:32 [edit]

category: 私の思い

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天皇家の姓  


仕事が忙しかったり、体調が悪かったりして、この数か月

ゴルフに行っていない・・・

私が下手くそなゴルフをする理由は楽しむためだけではない

仕事や私生活の「垢(あか)」を落すためである

この世の中、「理不尽なことばかり」 とは言い過ぎだろうけど

澱(おり)のようなものが心身に溜まってきてしまう

それをリセットするために、全てを忘れて「楽しく」ラウンドする

スコアなど気にしちゃいない・・・

その日一打でも「会心のショット」がでれば、それで満足なのである

私のスポーツに対する基本姿勢はただ一つ

楽しくなければスポーツじゃない

お金を払ってまで「嫌な気分」になるのって、どこかおかしくないですか?

気分よく過ごすために「プレイ代金」を払うと思っています

だから、スコアに拘ったり、気分悪そうにラウンドする相手とは一緒に

回ることは有りません

私のゴルフ仲間は「和気あいあい」が最低限の条件になっています



天皇家に「姓(名字)」が無い事になっています

どうして無いのかを誰も語ってくれません・・・・

神代の昔のことまで書き残してあるとされる「日本書紀」にも

その答えが遺されていないのです


ですが、私は天皇家には嘗て「姓(名字)」が存在していたと思っています

隋書倭国伝にも 【倭王あり 姓は阿毎(あめ)・・・】 と残されている


例えば神話に出てくる神の名前にも、天之御中主神・天照大神・天火明神

天御柱神・天火槍神・天若日子神・天忍穂耳神・天香久山神・天手力男神

天児屋根神・天之御影神・天太玉神、等々・・・


私たちはいつの間にか、「天」が天上の神の事のように刷り込まれてきたが

はたして そうだろうか?

【天】が日本の統治者一族の「姓(名字)」であったから、祖神の名前に付けられている

とは考えられないだろうか・・・・


なぜ漢風諡号に「天」が付いているのが【天武天皇】だけなのか・・・

(その事も引っかかっていることの一つです)


どうして中国を手本としてきた「ヤマト国」の統治者一族が姓を

持たなかったのか・・

姓(名字)を持たない王室は世界的にも稀有であり、無い事は自慢にならない

無いほうが都合がよいから「無い」のであって、その都合の良い理由を考えれば

無い理由も見えてくるかもしれない


中国大陸では例外はあるものの「姓」が有る事が基本であり、誇りでもあった

無いならば、創始すればよいだけであり、平安に至っても「姓無し」を解消

しようとした痕跡も無い

それよりはるか昔、遣隋使も役人から尋ねられ「姓は アメ」と答えたのだから

有ったと考える方が正しいと私は思う・・・


何と言っても 「公称 皇統2600年」の万世一系なのだから、途中で失くした

なら、その事実は伝わっているはずである

万世一系であるためには、男系で繋がっている事が大前提である

とすれば、姓は男系であれば同一のもので繋がっていなければならない

姓を捨てる理由は「不都合」なものだからという事も考えられる

何に不都合だったのか・・・

それこそが「万世一系」を誇示したい者たちの思惑ではないだろうか・・・

易姓革命は事実あったかもしれない

それが何時の時代なのかを知る術はないが、8世紀以前であることは

間違いないような気がしている

天皇家には姓(名字)が無い方が都合がよいとすれば、どんな理由があるのか?

諸説あるが代表的なものを書けば・・・

* 神の血筋で必要ないから

* 苗字がないのは血筋が尊い証拠

* 古代の倭人には姓(苗字)がなかったから

* 皇室は現在の日本国につながる国家が始まって以来

  ずっと続いているから

* 姓(名字)が無いと【易姓革命】が起こりにくいから


笑ってはいけませんが、理由にすらなっていないと私は考えます


なぜ名前と言うものが生まれたのか・・・

それは個人を区別するためであり、家系を区別するためだと

私は考えています

神の子孫を自称し皇統を誇示するならば、姓(名字)があった方が

好都合ではないでしょうか・・・

姓(名字)があったとしたら・・・キムさんが天皇家を継ぐことは不可能ですし

藤原さんが継ぐこともできないのです

皇統でない人間が天皇位に就くには、姓(名字)など無い方が都合が

良かったのではないでしょうか・・・

古代日本では【小国の長】が選ばれて【大王】になったと言います

その頃は色々な姓(名字)を持った大王が歴任した可能性が有り

天一族や呉一族、胡一族だったかもしれません

そういうことが有ったとするならば、万世一系には不都合な問題だった

私には万世一系を誇示するために不都合だったから、消し去ったと

思っています


旧ブログでも書きましたが、私の先祖をさかのぼると

私の父母は2人、祖父母が4人、曽祖父母が8人、高祖父母

が16人・・・・

つまりは【逆家系図】を作れば、私の10代前の先祖は1024人に

なってしまいます

万世一系という言葉の裏を読めば、限りなく薄い血脈の継承

と言えるかもしれません

なぜなら・・30代ほど遡って私たちの誰かが、天皇家と繋がっている

可能性もあるのですから

*計算上は30代遡ると、先祖の数は10億人を越えますから

○○さんの血が受け継がれていても不思議ではないのです


ただ間違えてはいけないのは、現在私たちが「姓」と言ってるものと

本来の「姓」は別物である

私たちが「姓(せい)」と言ってるのは正確には「名字」であり、本来の

「姓」とは【かばね】の事を指します

だから天皇家の姓ではなく、天皇家の名字と言うべきかもしれない

しかし、現代では 名字+名前=姓名 となっていて

姓=名字=家 の事となっています

佐藤さんも田中さんも桜井さんも・・・**家の人だから**さんなのです

Posted on 2017/07/17 Mon. 22:57 [edit]

category: 歴史

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