日本語は難しい  


暑さ寒さも彼岸まで

いよいよ寒い季節が到来です

秋という季節は自分のまわりだけを見れば「刹那(せつな)」にも似て

あっという間に通り過ぎてゆきます


太陽の下で輝いていた物がどんどん色あせてゆきます

だから「秋」という季節は感傷的になるのかもしれません




源頼朝 を読めない日本人は居ないことでしょう

ですが、外国人にこの文字を読めというのは酷な話で・・・

この文字は みなもと の よりとも と学校では習います

ではこの文字はというと 紀貫之 き の つらゆき

と読むことは知られています

さて、源 は みなもと と読むのですが「みなもとの」とは読みません

紀 は き と読みますが きの とは読まないのですが

不思議に思った人は少ないかもしれません

学校で習ったから、みんながそう呼んでいるから、テレビでそう読んでいたから

つまりは、そういうことではないでしょうか・・・


日本人が「自虐史観」を抵抗なく受け入れている要因が此処に在ります


詳しく知ろうとしないで、抵抗なく受け入れてしまう体質

どうして「**なのか」を教えない大人たち・・・・

これは日本と言う国が始まり続いてきた「素地」のようなものかもしれません


なぜ? どうして? という意識が希薄な国民・民族という気もします

どうして**が尊いのかを教えずに、ただ「敬え」という体質によって

日本人という特殊な人種を作ってきたのかもしれませんね



氏姓と名前の間に「の」が入るのは規則があります

この「の」が付くのは名字にではなく「氏姓」に付き、しかも天皇から下賜された「氏姓」

が殆どです

源、平、藤原、橘、菅原、清原、在原、高階(高)など・・


例外としては古代豪族の氏姓にも「の」が入ります

蘇我 物部 大伴 阿倍 東漢 秦 吉備 出雲 など・・・

どうしてなのかは不詳ですが・・・ (無知ですみません)


現代人には「姓」と「名字」の区別がつかないですが

明治になるまでは日本人の一部階級には「氏姓」とは別に「名字」が存在

していたのです

徳川家康も正式には 源 朝臣 徳川 次郎三郎 家康 といいます

源が「氏(うじ)」、朝臣(あそん)が「かばね」階級でも良いです

徳川が「名字」、次郎三郎が「字名(あざな)」通称名です

家康が「本名」ということになりますから

みなもとの あそん とくがわ じろうさぶろう いえやす と読みます


蘇我入鹿 は 「そがのいるか」と読みます

大伴家持 は 「おおとものやかもち」と読みます


しかし、明治になって西洋式に戸籍に登録するようになってから

氏・姓は名字という形で統一されてしまいました


漢字で考える常識に染まった現代人

あくまでも古来からあった「音」に外来の「漢字」をあてはめたことを

常に意識すると、意外なことが見えて来たりします


良 という文字も、嘗ては「那羅」「乃羅」「平城」などと記述されたことから

音として「なら」という地名は古代から定着していたと考えられます

古い地名・字名などは古代の遺跡・遺産かもしれませんが

ドンドン現代風の名称に変わってきています

自ら伝統や歴史を壊している愚かな日本人たち・・・・

自分達の周りの呼び名一つにも歴史は存在することに気づいてほしい

と長屋の爺は思っています

ひらがなで考えると今までとは違った歴史が見えてくるかもしれませんね。



神霊の国 日本 禁断の日本史

   井沢 元彦著  (ワニ文庫)

日本人は、ご飯を食べるときに「農家の方に感謝しなさい」

とはいうが、肉を食べるときに「殺してくれた人に感謝しなさい」

とはまずいわない。 (p11)


私のこの文章を読んで、「冗談じゃない、コトダマなんかにまどわされるかい」

と思った、あなた、たとえば明日海外へ出かけようとしている自分の両親や

会社の社長に、「明日の飛行機、きっと落ちますよ」

こういうジョークがいえますか? いえないだろう。

もちろん飛行機の航行に責任があるのは、航空会社であって、あなたではない。

しかし、仮に、ほんとうにジョークが実現して飛行機が落ちたとしたら、どうか。

あなたは「申しわけないことをいった」とあやまることになるだろう。

本来はあやまる必要はないし、非難されるいわれもない。航空機運航と

まったく関係の無い人間が、どんな言葉を口にしようと、その言葉の影響で

何かが起こるということは、論理的にみてありえないからだ。 (p35)


その論理的には必要のない謝罪をどうしてしなければならないかといえば、

そういった自分にも周囲の人間にも、「不吉なことを口にするな。そういうことを

いうとほんとうに不吉なことが起こる」といった考え方があるからだ。 (p36)

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Posted on 2017/09/24 Sun. 19:13 [edit]

category: 文字・漢字

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日本の皇室と半島の関係  

昨日・今日とブログを書いても途中で記事が消える現象が

頻発し・・・とても萎えている長屋の爺です

数日前のウインドウズの更新から不具合が頻発するようになり

改善ならぬ「改悪」のWin10と友人たちは怒っています(笑)


さて朝鮮半島の話題になると眉間に皺を寄せて批判する日本人

かく言う長屋の爺も「嫌韓」の一人だが・・・

その嫌韓日本人の方々は半島の歴史には詳しくない気がする

マスゴミの表面上の「狭く浅い」半島史に洗脳されているだけ

私が詳しいとか言うつもりはないですが・・・


ハングル(朝鮮文字)の起源くらいは嫌韓日本人は知っているだろうが

文字ではなく「ことば・言語」について、あまり知られてはいないようだ

半島では7世紀くらいまでは今のような朝鮮語は使われていなかったと

いう説もあり、三韓(馬韓・弁韓・辰韓)では中国語に近い言語だったともいう

その辰韓が後の新羅(しらぎ)と呼ばれその南部にかつて【伽耶(かや)】という

日本の領土が存在した(4~7世紀)

その伽耶では「和語」が主要な言語であり、新羅や百済も和語の通じる

国だったと思われる

その百済・新羅の北に位置に現在のソウルやピョンヤンが含まれる【高句麗】

という大きな国家が存在していた

       kmap1.jpg




高麗神社が半島人と無関係ではないにせよ、日本人とは結びつかないことは明白

それでも「ウリの起源」と「朕の起源」を同じと言う感覚は理解できない爺です(笑)




ところで、現在の半島人は【ワイ(穢多)族 】といい、初期新羅を滅ぼし乗っ取った

王氏高麗の血筋(ワイ族)が現在の朝鮮人であり「高麗」との関連は種族名だけで

高句麗からの帰化人たちと現朝鮮人に明確な血統のつながりは見当たらない


私たち日本人が「高麗」とか「高句麗」と聞いても親近感がわかないのに

親近感を感じるのは、ある種の洗脳か思い違いとしか思えないのである(笑)


高麗神社には参拝できるのに、靖国神社には参拝できない人間が我が国の

かつての祭祀王の実像なのである・・・・

半島人は口を開けば【半万年の歴史】と叫ぶが

かの国に半万年などと言う歴史など存在しない

大陸や半島というものは民族が移動してその土地の人間が入れ替わる

事も少なくない、とくに侵略されればそのほとんどの住民が虐殺や売買

され、根絶やしに近い状態になる事が多い、いうなれば「人種民族の通り道」

という事になる

かの国も例外ではない・・・

朝鮮の歴史とは【属国の歴史】と言って過言ではない

宋、契丹、金、モンゴル、清などの属国になる事で繋がってきた屈辱の千年だった

独立国家が中国に毎年若い娘を、数千人の規模で貢いで来たのが事実であり

事大主義がDNAに刻まれたのも「属国体質」から起こったものかもしれない

気持ちは先進国だが、内情は開発途上国、虐げられることのトラウマから

相手を罵倒することに快感を感じ、弱いと見れば徹底的にたたく国民気質

それが朝鮮半島人の素顔なのである。


 気持ちだけは先進国の南朝鮮だが、この国が世界から独立国と

認められたのはつい最近の話・・・

1991年に国連に加盟してから世界の国々から「独立国家」として認知された

夢想の中で生きている民族にはこの事実すら見えないのだろう(笑)





私の蔵書はおそらく400冊をはるかに超えている気がしますが

その多くは古代史に関するもので、日々参考にさせていただいていて

今回から記事の最期に書籍の紹介と一部の引用を掲載したいと思います


出雲大社と千家氏の秘密

著者  中見 利男氏  (宝島社発行)


「明治政府は王政復古、祭政一致の理念を打ち立て、天皇を天照大神から

続く万世一系の絶対的な権威として国家神道の整備に着手する」 (p54)


「年の始めの例(ためし)とて、終りなき世のめでたさを

 松竹たてて門ごとに 祝う今日こそ 楽しけれ」

これは千家尊福が作詞し、上真行(うえさねみち)が作曲した「一月一日」の

一番の歌詞である。 (p58)

Posted on 2017/09/22 Fri. 19:53 [edit]

category: 歴史

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日本書紀の疑問・矛盾 (弐)  


めっきりと秋らしさを感じる日々になりました

寒いのも暑いのも苦手な爺ですが、秋がとても楽しみで・・・

秋の食べ物でもなく、秋の観光でもなく

秋の風が訳も無く大好きな変わり者でして・・・

何処かに秋の風を求めて旅したい長屋の爺です



さて、歴史好きの方や歴史を研究している方、歴史のプロの

方々が「バイブル」のように感じている【日本書紀】ですが

兎に角長屋の爺には「突っ込みどころ」満載のとても大好きな

史書なんです

だれしも日本の歴史を考えるとき、物差しにする日本書紀ですけど

不可解なことは観ないように考えないようにして、「好いとこ取り」で

都合よく解釈する傾向にあるんですね(笑)


日本書紀とはいったい何だろう?

日本書紀の存在は果てしなく「謎」なのを知らない人が多いですが

その辺りからちょっと「不思議な史書」という事実を考えてみます



この日本書紀なる書物(史書)の存在が語られているのが

【続日本紀】の記述によるとされるのが定説になっています

「先是一品舎人親王奉勅修日本紀 至是功成奏上 紀卅卷系圖一卷」

素人考えですが、此処に記されている「日本紀」がどうして日本書紀なのか

だれも不思議に思わないことです(笑)

例えは間違っているかもしれませんが、鈴木一郎という人と鈴木太一郎という人物は

本来は同一であると言われているようなもの・・・

これがこの世界(業界)の判断なのです

研究者の都合なのか、権力者の都合なのかは不明ですが

そういう結論に導いたのか、それともこれで万事収めようとしたのか・・・・


続日本紀のいう「日本紀」と「日本書紀」が同一だという根拠は希薄です


では謎の部分にも目を向けてみます

この日本書紀は天武天皇の勅によって編纂されたという事になっていて

その理由が、中大兄皇子(天智天皇)が蘇我蝦夷を滅ぼしたときに朝廷の

書物を保管していた書庫まで燃えてしまって、「天皇記」が消失したからだと言います

その際に、「国記」は難を逃れ中大兄皇子(天智天皇)に献上され、資料として

引用されたように考えられています


此処で疑問です

そんな大事な「国記」なら書写して何冊かを保管してあるはずですが

この日本には現存しません

中国の「お経」などは貴重なものですから、何人もの僧や貴人たちが

書写しています

その事から、残っていないのではなく「残さなかった」というのが私の考え方で

なぜ残さなかったかは、「不都合なこと」が多く書かれていたからだと

確信しています


まず、そもそも持統天皇の「夫」である天武天皇の生年月が不明な事

持統天皇にすれば「愛する夫」であり、元明天皇にすれば「叔父」であり

元正天皇にすれば「祖父」なのですから、天皇史を残す時に「大事な人」の

経歴を「端折る(はしょる)」ことは意味不明なのです

さらに天武天皇の経歴は30歳以降しか残されていません

子供たちも30歳を過ぎた後に【十男七女】が誕生していますが

十代後半から二十代後半までの十数年間に妻も娶らず子供など

居なかったとでも言うのでしょうか?

30歳になって天から降臨した天皇だったとでも言うつもりなのか・・・・

*天武天皇については書き始めると、とても長くなりますので別の機会にでも


日本の歴代天皇の【生没年】が解っているのは・・

第30代 敏達天皇 538~585年

第33代 推古天皇 554~628年

第34代 舒明天皇 593~641年 と以降は明確に残っています

ところが第40代 天武天皇の生年が不明なのですから

日本書紀の記述を信じろという方がどうかしている・・・

30代の天皇の生没年が残っているのに、31代~32代が不明

33代推古天皇はハッキリわかっている・・・???

分かっているのではなく敢えて書き残したと考えると、疑問が見えてきます

私の持論は第33代推古女帝は架空の天皇と言う認識です

推古天皇を基準に前後の天皇を書き残した故、つじつまの合わない天皇は

生没年を不明にする必要があったと考えるべきかもしれません


なぜ「天皇記」や「国記」が残っていないのか?

遺すことによって不都合な人間が多くいたという証でもあります

何が不都合だったのかは、私は「蘇我氏」の行跡と天皇家(大王家)との

関係を後世に残せなかったからだと思っています


次回は歴史の常識のウソについて、日本書紀を考えてみます

Posted on 2017/09/20 Wed. 20:18 [edit]

category: 歴史

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反省  


私が余計な事を呟いたことで心配をかけてしまったようで・・・

痛い痒いとは実生活では弱音は吐かない爺ですが

ブログという空間で甘えというか油断というか大いに反省しています


私は現在も肉体労働に従事している職人です

頻繁に神社仏閣の床下を匍匐前進したり、天井の梁を忍者のように

動き回っております

まだまだ若いものには・・・・という自負もあります

2年前までは腹筋30回、背筋30回、腕立て伏せ30回をワンセットに

3セットは息も上げずにこなしていました

ところが昨年左背中(肩甲骨)の横の筋を痛めてしまい(断裂寸前)

その部分を庇うように仕事をした結果、腰に負担がかかって腰痛を

頻繁に起こしてしまいました

運動不足とか加齢による腰痛の類ではなく、怪我がもとで起きた腰痛です

時々20キロ近くある材料を数十個運ぶ仕事があり、左肩を庇うあまり

腰に過剰な負担を強いていたというのがほんとうの処です

左肩も大分痛みが無くなっていますが、庇う姿勢が癖になり腰痛の再発を

起こしているようです

痛みが消えたら従来のように腹筋や背筋の運動を再開するつもりでおります


仔細を書かないで腰が痛いとだけ書いたばかりによけいな心配をおかけしている

のが申し訳なく、今日はパソコンに向かっておりますが

もうしばらくはタブレットでの閲覧だけになりそうです、タブレットでも記事は

短いものなら書けそうなので、挑戦しようとは考えていますが・・・

心は繊細ですが、身体だけは頑丈な長屋の爺ですのであまり心配下さらないように

お願いいたします(笑)


仕事は休めないので日常生活で体を休めているのが現実です

これを機会に「弱音を吐いたり」「痛い痒い」を言わないブログにしてまいります

皆様に感謝!

Posted on 2017/09/15 Fri. 21:48 [edit]

category: 私の思い

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伝える事  


先日、調子の悪かった腰を痛めてしまった

「魔女の一撃」という厄介な奴で・・・・

どういう体勢でも辛く、湿布と痛み止めのお世話になっています

そんなわけで更新は様子を見ながらという事で・・・



最近の気象は我々がかつて経験したことのないような

まさに「異常」にも感じる状況です

我が日本にも【天人相関】という考え方があります

徳の無い者が国を治めると天の怒りを受けるというもので

異常気象(干ばつ・豪雨・冷害・地震)や疫病(伝染病)などの流行だと

され、戦争などは含まれません

なぜならここで言う「天の災禍」とは自然現象が基本にあるからです

どうして自然現象なのかといえば、日本の古来の神とは「自然神」が

中心だからです

八百万の神とはたくさんの人格神ではなく、自然そのものであり

そこに宿るとされる【精霊】が神であるという考えです

これを「こじつけ」「迷信」と思う人には理解できない話で

先人たちが経験したことから導き出した「戒め」だと私は解釈しています



私たちが古代史や歴史を考える時、現代感覚で考えてしまいます

例えば現代ではお年寄りより若者の方が「知識」や「情報」をたくさん

持っています

それが良いとか悪いとかは別として、毎日発信される情報知識においては

高齢者は「置いてけぼり」を食らう事がしばしばあります

しかし、古代では知識・情報は空を飛んでくることは無く、どちらかというと

経験則が生活の基準になっていたと思えます

その意味から「情報」「知識」「技術」は一部の人間、それも歳を経た「長老」

と言われる人たちの【占有】に近かったと私は思っています


ではその知識はどうやって伝え続けたのでしょう?

おそらくその多くは口承(こうしょう)だったと思われます

*口伝え・口伝(くでん)ともいいます

そのなかでも特に重要なことは多くの者にではなくある限られた

人間にだけ伝え残されたと考えています

それを口秘(秘伝、一子相伝)などと言うのではないでしょうか・・・・


なぜ口承などを持ち出したのか?

古代史研究者のバイブル「日本書紀」には口承と思われる記述

一書(あるふみ)というものが数多く残されて本文に添えられている

嘘をつくなら徹底して突き通すはずなのに、この一書の記述は不可解

なのである

私は本文に書き添えられた「一書」とは後世の人間が書き足した

各部族に伝わる口承ではなかったかと・・・

*機会が有ればその一書を紹介したいと思っています


「一子相伝」というものは、とても都合勝手が良いものでして

伝えた者と伝えられた者以外はその総てを知ることができない

日本の皇統にも「天皇祭祀」は一子相伝と言われていますが

「私が伝えられたのはこういう事でした」

などと聞かされても、事実かどうかなど知る由もありません

なんでも記録できる時代において、動作・作法ですら明文化できる時代ですが

そんな書き物が有るのかどうかすら知り得ません

私の暴論ですが一度途絶えた皇室祭祀について、明治政府は「天平御遺誡」

を基に祭祀の凡その部分を復活させたのではないかと考えています

天皇家から仏教を取り上げたからには、祭祀は欠かせない宗教行事だったと

思われます

あくまでも万世一系で二千数百年の祭祀王の家系は譲れない事だった

天皇=アラヒト神として、徳川の治世を否定するために・・・・

天皇が人だから人臣が天皇家や貴族を蔑ろにする

てんのうが神であれば、何人(なんびと)も不敬な振る舞いをすることは

許されないという形に持って行った

その為にも「伊勢神宮」が天皇家の祖神であることを強調したかった

それが明治天皇による初めての伊勢参拝だったと私は考えています。

Posted on 2017/09/13 Wed. 23:08 [edit]

category: 歴史

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